アジア人透明扱いの件 | Hello from NJ

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アカデミー賞の授賞式で、アジア人の俳優がまるでいないかのように扱われているということが日本のメディアで大きな話題となっているようです。

 

もし起きたことが報道の通りなのであれば、そのように扱われた俳優の方々のお気持ちが早く楽になるようにと祈ります。

 

アメリカではどう報道されているのか検索かけてみたところ、こちらのメディアでは、ほぼ取り扱われていない模様です。一つにはやはり、以前私もブログに書いたのですが、差別かどうかの判断というのは、軽々しくしてはならないからなのだろうと思います。

 

それともう一つ考えられるのは、特に政治やハリウッド、スポーツ、有名な家柄、高学歴高収入などの中には、吐き気がするほど「嫌なやつ」や「鼻持ちならない高飛車なやつ」というのがいるのが当たり前となっており、そこでは成績さえよければ(お金を稼げれば)、横柄な態度が許容されやすい世界だということです。

 

嫌なやつの例としては、昔行ったパーティで、大声でこんな会話をして、目立っている人たちがいました(白人同士でした)。

 

おっさん「どこに住んでいるんだい?」

若者「〇〇という街です(高級住宅街)」

おっさん「おー、俺もだよ。何ストリート?」

若者「〇ストリートですけれど。」

おっさん「〇ストリートは本当の金持ちではないから、〇〇という街の住人としてカウントしないよ。わーっはっは!」

 

とんでもない会話なのに、パーティの主催者はビジネスでお世話になっているのでしょう。若者を守らず、「まあまあ、わはは!」みたいな感じだったので、大人の世界は汚い(私も大人なのに)と思いました。

 

そう、こういう鼻持ちならないやつというのは、自分が認めた人間以外には吐き気がするような扱いをします。(日本でも、自分が偉いと勘違いしている偉くもない人が、飛行機で横柄な態度をとっていたとか…たまに耳にしますけど、吐き気がしますよね!)


これからは、いかなる賞にせよ、立場にせよ、人間性や人格も考慮して選出されるのが望ましいかもしれませんね。

 

一方SNS上では、今回の疑惑を機に、欧米圏に暮らしている(いた)アジア人の現在過去の傷がうずき、me too運動のように、「私も過去にこのような差別的扱いを受けた」「私も透明扱いされることなんてざらだ」という声が挙がっている印象です。

 

いない者扱いなんて、ものすごく失礼な話ですが、相手がどう思うかはこちらには変えられないので、それはその人たちに任せ、私たちは、自分がどのようにありたいか、扱われたいか、を考えて行動するしかありませんよね。


そのような人たちと付き合わなければ良いと考えるか、その人たちに認められたいと考えるか、その人たちをギャフンと言わせたいと考えるか、その人たちをいつか見返そうと考えるか…その考え方一つで生き方というのは大きく変わるものです。

 

アジア人と言っても一人一人違うので、ひとくくりにするのもどうかと思うのですが、私は世界のどこへ行っても、アジア人が辛抱強く、穏やかで、努力家が多いことを誇らしく思っています。一方でまた、世界を変えたいのであれば、他人任せにせず、「我慢してきたものを開放し、声を上げていく」というチャレンジが課せられているようにも思います。それは、被害者として誰かを責めることではなく、よりよい社会(世界)をつくるため、変化を望む市民としての声です。勇気が必要ですが。がんばりましょう。


鼻持ちならないやつは、一回茶室のにじり口を通ればいいのさ!頭を下げなきゃ入れないんだぜ。茶室の中では誰もが平等なんだぜ。


透明は透明でも、それぞれの人の心の中に、こんな透明な茶室があれば、人はもっと謙虚になるのかもしれませんね。


(写真は直島で見た、杉本博司さんのガラスの茶室「聞鳥庵」。ネーミングセンスよ。)