桐朋学園演劇科回想録 石母田さんに聞く vol,9-1 | 桐朋学園芸術短期大学芸術科演劇専攻         同窓会

桐朋学園芸術短期大学芸術科演劇専攻         同窓会

桐朋学園演劇科同窓会のページです。

会員皆さんの近況、公演情報等およせください。

 ■ 「桐朋演劇科を築いた人達。第9弾!
     石母田さんに聞く」



まず石母田節さんをご紹介します。石母田さんは大正4年(1915年)10月31日宮城県石巻生まれの89歳、来年は90歳になられます。今の電気通信大学の前身の無線電信講習所を卒業後、大阪商船に入社。国際一級無線技士として、主に外国航路で客船や貨客船に乗船、戦時中は海軍の御用船に。戦後も貨物船に乗船していらっしゃいましたが、28年間の船乗り生活に別れを告げられた後、昭和43年(1968年)1月1日(当時53歳)から演劇科の担当として、桐朋に入られました。以来、一期生から六期生ぐらいまでが主にお世話になりました。そして昭和54年(1979年)3月31日、63歳で桐朋を退職されました。とにかく演劇科の授業や公演のスタッフとして、切符のもぎりから稽古場の掃除に至るまで、それはそれは懸命に演劇科を支えて下さいました。桐朋の草創期を語る上でなくてはならない方として、又大変お世話になった我々は、今お住まいの石巻に足を向けては寝られません。そんな大切な方なのです。 それでは本文に進みたいと思います

これは平成16年10月26日、宮城県石巻市の石母田節さんのご自宅にてインタビューしたものです。文頭の石は石母田節さん。福は聞き手の福永典明の略です。

石) わざわざ遠いところまで来てもらって恐縮しております。

福) とんでもございません。石母田さんのお話を聞かないと、この回想録は成り立ちませんので、是非当時の話をたっぷりとお話下さい。もう時効ですから。(笑) さて、始めにどうして桐朋に入られたのか。その辺のところからお話ください。

石) たまたまうちの姪っ子が桐朋女子にお世話になっていましてね。私はそのころ新宿の紀伊国屋ビルの中にある、ある会社をお手伝いしておりまして、桐朋教育は素晴らしいという話を聞いていたんです。あれは八月の夏休みの時だったかなー。どなたもいらっしゃらないところを外からそーっとのぞかせてもらおうと仙川まで足を運んだんですよ。そしたら偶然にも千葉先生が短パン姿で出てらっしゃって。実は千葉先生と私は石巻で幼なじみでね。私のほうが年上なんだけれど、それでお部屋に案内されて。その時に何を話したのかはもう覚えてませんけど、20分くらい話をしたのかなー。それから二ヵ月後の10月頃でしたかね。私の兄で法政大学の教授をやってた石母田正が、生江先生と千葉先生、それに会計係の高橋金雄さんの三人に呼ばれましてね。「演劇科が出来たんだけれど、そこで節ちゃんに手伝ってもらえないだろうか。」という話が出たそうなんですよ。私は船に乗っていて無線通信士を戦争中も合わせて28年間やってたもんだから。それが全くの畑違いの演劇でしょう、ましてや学校の中で、しかも新しく短大の中に演劇科が出来て、その仕事のお手伝いをしろというお話だった。

福) そうすると石母田さんは、最初は学校とか演劇とかそういうものとは全く縁がなかったわけですか。

石) そう。全然違う、知らない世界でしたよね。だって私は船に乗って無線の通信士、最初に入ったのが大阪商船、OSKって言ってね。そこで客船に通信士として乗船したのが最初で、それから貨客船、戦時中は海軍の御用船で主に南方へ行ってたの。

福) 要するに元々は通信士で船乗り。

石) そうそう船乗りだったんですよ。

福) それが女子学校の仕事をするなんてことは。

石) いやいやそれは夢想だにしなかったね。ですからね、兄貴から話があったときにはね、学校、しかも女子学校に、しかも演劇科。通信士の仕事は人には負けなかったつもりだけれど、とにかくまるっきりね。だけどね、何か自分で決心したらやれない事はないとも思ったわけ。でも、いまだに自分でもよくいったと思いますよ。(笑)

福) 目の前わかんなくても桐朋に入っちゃったわけですよね。

石) 一番最初から失敗談なんだけれども、何にも知らないわけですよ。当時は細かい事も永曽先生が一人でやってらした。そこで永曽先生からね「日舞の平台を用意して下さい。」と言われたんですよ。その平台というのがわかんないわけですよ。知らない。人に聞いて歩くわけにもいかないでしょ。今さら永曽先生に「平台ってなんですか。」って聞くわけにもいかないし、それでなくても永曽先生としては「若い男の子をよこすんならともかく、自分より年上の50過ぎたおっさんをよこすとはね。」という思いが強かったと思いますよ。当たり前ですよ、それがね。そこへ来て持って「すいません、平台ってなんでしょう。」って聞けますか。

福) そりゃーそうですよね。(笑)

石) それで考えたわけ。平台はタイラという字に台、踊りをやる時に使うってんだから、じゃこの台だろうと、倉庫に入ってたのかな、ヒノキ作りの。これじゃないかと賭けたわけですよ。違うといわれるかもしれないけど、それを用意したの。そしたら何も言われなかった。これが最初。これが一番印象深い、平台。「やった!!」ってね。(笑)

福) ハアーそうですか。木造校舎の、確か北館って言ってましたよね一階の一番奥のところにね。講堂に近いところの教室に平台を引いて日舞や狂言をやりましたよ。

石) これが桐朋の演劇科に入って一番最初の仕事だったの。

福) でもあの頃は演劇科が出来ても女子校の方は「入ってきて欲しくない」という気持ちがあったようですね。

石) 「欲しくない」どころじゃないの。もっとひどいの。

福) どんな感じだったんですか。

石) そうね、いろんな問題があったわけですよ。その中には経済的な問題もあるわけですよ。演劇ってのは儲からない。文科なら100人も200人も学生さん採れるけど、演劇科は50人しか採れない。何かにつけて演劇科はお金がかかるわけですよ。女子部の方のお金も回してもらわなきゃやっていけない。それから施設も何もない。いろんな施設を貸してもらってやりくりしていくわけですけど、それはいいの。他にもタバコ事件やら、

福) ゴミ事件

石) そうそう、それから一期生の山本亘だの、あの連中がね。またカッコウが。みんなおよそ学生などとは縁のないカッコウしているわけですよ。みんな。

福) だらしないとか。

石) だらしないのかどうか。ぞろぞろと来るわけですよ。そうすると「乞食が来た。」って女の子が「あらあら乞食よ。乞食が来たよ。」って女の子が言ってるのよ。私は演劇科担当だから「何を言うか!!」って思うけれど、言われてみればだなーと。(笑)    それからある時、女子校の実験室を演劇科が借りたんだなー。そしたらやかましい独身の女の先生がいてね。呼びつけられたの私。何だと思ったら「後始末もしないで帰った。どうしてくれるんですか!!!」って言うの。私も今までそんなにあやまり役をやったことないのにね。船じゃ一方の責任者でキチンと仕事さえしていれば、そんなにあやまって歩く事はなかったんだけど、何たる事かと思いましたよ

福) 50を越してあやまる役をやらなくっちゃならないとは。(笑)

石) 呼びつけられてね。(笑) 

福) 確かに演劇科の学生は当時、永曽先生や石母田さんが一生懸命やっていただかなければ、それこそほったらかし、やりっぱなし、ゴミ出しっぱなし、タバコ吸いっぱなしってのが多かったですからね。稽古場の整頓は出来るんですが、なんせ日常生活がだらしないというか、非常にルーズでね

石) まあ野武士みたいなね。高校出てすぐって人もいたけど、大学出てから来た人や社会人経験者もいたりして、大志を持って入ってきてたからね。立派だと思うんですよ。そういう人達だからね。私なんかが小言を言うなんてのは、言いにくいわけですよ。次元が違いすぎてね。

福) 要するに、ガキではなかったわけですよね。

石) 先生方にしたって、みなさん異色中の異色でしょう。そんなかたまりが入ってきたわけですからね。

福) 石母田さんは船の中での規律正しい生活を。女子校もきちんとした校則の中、そこに、もうとにかくわけのわからない連中がドーンと来たわけですからね。

石) 世界が違うんですよ。(笑)

福) ショックを受けませんでしたか。こういう連中がいるのかと。

石) ショックを受けるどころかね。頭下げて歩くのが日常になってしまって、いや本当、最初はそうですよ。でも演劇科というものに対する何かいいものを感じてたんですよ。言葉では表しにくいんだけど、演劇科のみんなには文句を言わないんですよ。「気をつけてよ。」ぐらいは言っても。むしろ外の方にね。

福) あやまりに歩いて。(笑) はあー確かに石母田さんは、外に対してはあやまり歩いていらしたのは薄々分かっていましたけど、我々に対しては怒ったりとかそういうことは微塵もありませんでしたものね。

石) そういう気持ちにもなれなかった。やはり一種のね、いちずな演劇科生に対しての尊敬みたいなものがあったんですよ。だから言葉として出てこないし、その(怒る)つもりもなかったのね。何とかして後始末、というのが私の役目だと。

福) なるほどね。いつも我々のやった事を尻拭いしていただいてたんですよ本当に。さて、石母田さんから見た演劇科の先生方を語っていただきましょうか。まずは千田先生からですけど

石) 千田先生はね。実は私が18歳(1933年)の時に築地小劇場創立10周年記念公演にね。長兄に連れられて、その舞台を観に行った事があるの。土方与志さんなんかの新劇の基礎を築いた人達の公演でゴーゴリー作『検察官』だったと思うんだけれど、観てたら突然ピッピーって笛が鳴って「中止!!中止!!」って。本物の警察官が芝居の最中に出てきたのを覚えてるんだけど。その舞台に千田先生が出演されてた事が後で分かってね。とても親しみを覚えましたよ。 その千田先生と桐朋でご一緒出来た。その千田先生、やっぱりあのくらいの大先生でもね、私の印象ではね、そう豊かな経済力を持っておられたわけではないと。と言う事は、日本の新劇界のね、事情と言うか。なぜかと言ったら千田先生は桐朋学園の理事という役職も持ってらっしゃったんですよ。理事には理事手当が支給されるんですよ。ところが千田先生は理事会にもあまり出席されなかったのか、理事手当を取りに来られないわけですよ。困った係りの人が「石母田さん、これ届けて。」って頼まれてね。私が研究室に伺ってお渡ししたんですよ。確か四期分ぐらいまとめてお渡ししたのかな。そしたら本当に嬉しそうな顔して、ニコニコしながら「石母田君な、これオレの大事な小遣いだよ。」って言われるんですよ。(笑)「そうですか、今度から私がお持ちしますから。」って言ったら「頼むよな。」っておっしゃって(笑)。というのは千田先生、理事会に一遍も出た事ないから気が引けてらっしゃったんだよね。