★東京都のパワースポット★
つづいては~
國學院大學神殿から目と鼻の先。
渋谷から歩いて15分ほど。
氷川神社
(通称渋谷氷川神社)にいきましょう~
ご祭神
素盞嗚尊 稲田姫命 大己貴尊 天照皇大神
住所
東京都渋谷区東二丁目五番六号
03-3407-7534
地図はこちら
國學院大學からきたので
本殿に近い所の鳥居から入ったけど
せっかくなので、入口にやってきました~。
氷川神社の由緒書には・・・
古くは氷川大明神といって日下渋谷村、下豊澤村の総鎮守でありました。
創始は非常に古く、今、之を詳らかにすべきものがありませんが慶長十年(一六〇五年)九月に宝泉寺第百代住職実円が記した『氷川大明神宝泉寺縁起』によりますと、景行天皇の御代の皇子日本武尊東征の時、当地に素盞嗚尊を勧請したとあります。
その後、嵯峨天皇の弘仁年中(810~24)慈覚大師が宝泉寺を開基し、それより同寺が別当となったとありまして、正徳三年(一七一三)宝泉寺から幕府に出した書上には「起立の年数知れず申候」と見えています。
天明二年正月五日阿部備中守へ差し出した書類に別当宝泉寺の庫裏から出火し、土蔵が炎上したことが記され、宝物資料などはこの時焼失したと伝えられています。
神社の周りには、石器時代の土器や弥生式土器や竪穴住居のあとが掘り出され、非常に古い頃からの文化と部落の中心だったことが知られます。
そのことからも渋谷区最古の神社と言えます。
『新編武蔵国風土記稿』には、源頼朝が勧請したとか、金王丸が信仰したという諸説がありますが、詳らかではないとあり、享保十七年(一七三二年) の『江戸砂子』の前には遡ることはできません。
昔は、松杉の類が鬱蒼と茂り、昼なお暗く渋谷川が門前を流れていかにも神さびたお宮であったらしいことは『江戸名所図会』の絵を見ても窺われます。
元禄六年(一六九三年)及び延享五年(一七四八年)奉行所へ差し出しの図面にはいずれも境内除地六千八百四十坪とあり、正徳三年(一七一三年)、寛延二年(一七四九年)などの寺社奉行から下した朱印状にも同様となっており、現在では、約四千坪となっています。
境内には『江戸名所図会』によると神木とある老松があって、「常磐松」と呼ばれ、常磐御前が植えたという伝説もあります。
この松は、百年以上前に枯れて、古株だけが後年まで「守武萬代石」という石の傍ら、今の神楽殿の後ろの辺りに残っていたといいます。明治十年(一八七七年)差出の明細書にも「現ニ枯木根幹アリ」とあります。
之が所謂「常磐松」の元祖です。
例祭は、もと九月二十九日で、この日には昔から参道傍の相撲場で大相撲が行われ、「渋谷の相撲」「金王の相撲」などと言われ、近郷近在は勿論、江戸表からも見物人が多く集まり、ある年享年の為休んだところ集まった面々によって遂に大相撲になった事もあるという位で、将軍家でさえ「渋谷の相撲」なら見に行こうと言われたと伝えられています。
相撲場は、江戸時代からの由緒あるもので、江戸郊外三大相撲に数えられています。
・・・ってことで
渋谷で最古の神社。
ひえええぇっ
ぐるぐるぐる~
氷川神社金王相撲跡
この氷川神社の創建は、区内でも古く、かつての下渋谷村、下豊沢村の鎮守社でした。
そのころの祭日は、九月二十九日で当日は境内で相撲が行われ、その相撲場は今も残っています。
この行事を金王相撲といい、いつごろから始められたか明らかではありませんが、かなり古くから行われていたらしく、近郷はもちろん江戸の町からも見物人が集まり、凶年などには休業しようとしても見物人が集まるので、やむなく興行したといいます。
ここで相撲をとったのは、本職の江戸の力士ばかりではなく近郷の若者も大勢参加し,江戸時代の村のレクリエーションの場となっていました。
相撲といえば・・・
私、昔ね、出雲大社にいったときに御祭りの日とぶつかって
白鳳ともう一人、力士の方がいらして
ご社殿の前で、四股を踏んだ姿をみれたの。
それがっっ!!
もぅ、びっくりするほど
パワーがすごかった~。
四股を踏んだ瞬間
ご祭神の大国主命様の気が境内全体にドシーッと降ってきた!!
・・・っというか
地響きするような感じで
いやぁ、全身に御神気をあびて帰ってきました。
横綱って・・・すごいねぇ
さっ、再び、参道へ~~。
気がお疲れの状態だと、いつも通りにならなくて
楽しむって、楽しもうって!って思ってできる程度のことと
毎月15日は、いいご縁の日の御朱印
こちらは縁結びお守り
携帯カードだって。
これも15日は限定のピンク~。
この神社は、夫婦の神様
素盞嗚尊 稲田姫命が祀られているから
縁結びの御利益があるんだね。
渋谷氷川神社、とても男性的な力が強いので
縁結びなら、関係を発展させるため、勇気をだす
女子力を磨くための、行動力・・・
とかにもご縁をいただけそうです。
摂末社は~
あとね・・・