*:.。..。.:+・゚●スピリチュアルな日常*:.。..。.:+・゚ほんとのことがしりたい●*:.。..。.:+・゚

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Spiritual…霊的◆Spirituality…霊性、精神性◆Spiritualism…精神主義、心霊主義◆霊… 不思議な力や働きをもつ存在。万物に宿る精気。肉体に宿ってその活動を司る精神的実体。魂。


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恐れを生み出すシステム。

これは無意識下にどっしりと根を下ろすプログラムです。

わたしはかつて「嫌な妄想」を膨らませることに余念がありませんでした(苦笑)

 

何かにつけネガティブな解釈をしてしまい

それによって疑心暗鬼に陥り

必要以上に相手を責めたり自分を卑下したり…

 

今にして思えばそれは

「恐れを生み出すシステム」のプログラムが無意識下で実行されていた状態です。

 

怒りや悲しみといったネガティブな感情を増幅させるような思考や言動を

知らず知らずのうちに選んでいました。

今も少しその名残はありますが、すぐに気付いて軌道修正をかけています。

 

遠い昔人類がまだ野生動物と、生きるか死ぬかの戦いをしていた時代に

あまりに楽観的だと種族がすぐに絶滅してしまうので

恐れの自動反応は進化の過程でDNAに組み込まれた種族保存のためのシステムだとか

はたまたレプティリアンに遺伝子操作された結果の状態であるとかアヌンナキがどうとか

いろんな説がありますが、原因となる事実が何だったのかわたしにはわかりません。。。

 

けれどもある一定の条件下においては、自分の思考・言動のほぼすべてがこの

「恐れを生み出すシステム」のプログラムにコントロールされていたのはおそらく事実だと感じます。

 

恐れを生み出すシステムなので、やることなすことすべて最終的には自分を苦しめることばかり。

顕在意識では必死で問題を解決しているように感じていても

実のところその言動は自分を追い込むものでしかありませんでした。

結果として「自分を粗末に扱う状態」が常に確定していたということです。

 

自分の中にある「恐れを生み出すシステム」を認識することがとても大切でした。

意識が先。現実があと。ということを考えたら

嫌な現実を創り出していたのは自分自身だったということになります。

外側の誰かや何かをどうにかすることより

内側をバージョンアップすることの方がいかに重要かということが

今なら身に沁みてわかります。

 

「恐れを生み出すシステム」とは

ずっと昔から定着している、慣れ親しんだ思考パターンだと言い換えることもできます。

なぜいつもこうなるんだろう?とわが身に起こることを考えた時

そこにはいつも同じような解釈の仕方、慣れ親しんだ思考パターンがありました。

 

これを打破するには、今までとは違う解釈が必要でした。

古いパターンを自らの意思で壊すことが、新しい流れを招き入れる第一歩となるのです。

 

「恐れを生み出すシステム」のコントロールは受けないと決める。

意識の使い方、思考の使い方を健全にすると決める。

意識や思考は、どうすればもっと自分を大事に出来るかという

自己愛の方向にしか使わないと決める。

それは結果として「自分を愛する状態」が常に確定する状態を創ります。

 

この二つの大きな違いは、何はさておき「気付きがあるかないか」ですが

気付いた後の実践が、とりわけ大事なのです。

 

知っているだけでは意味がないというか。

実践における「やってもやってもうまくできず、ほとほとイヤになるけどそれでもやる」

という日々の涙ぐましい努力なくして変容はあり得ないと、わたしは感じますしょぼん

まあこれは意識の変容に限らず、現実的な技術の習得などでもまったく同じことが言えます。

 

いくらやってもモノにならず、自分には無理かもしれないとなかば諦めかけたある日

「あれ……今できた……?」

という経験が、誰しも一度や二度はあるかと思います。

 

そしてどんなコントロールをされるかはタイプによってさまざまだとは思いますが

わたしのコントロールのされようは「エゴを表に出し過ぎ」でした。

怒りということを例にとれば、腹の立つ対象に向かって怒涛のごとく怒りをぶつけ

相手がいかに非常識なことを言ったか・したかをあげつらい

悔い改めることを強要し、それを言葉や態度でこちらが納得する形で示せと詰め寄りました…

 

また傷つけられた時は内容こそ違えどパターンは同じで

相手がいかに無情なことを言ったか・したかを

相手が罪悪感を持たざるを得ないような言葉をふんだんに使って(笑)涙ながらに訴え

態度を改めろ、謝れ、わたしと同じ痛みを味わうべきだなどと強く要求しました汗

それを相手が拒否すれば、可哀そうな自分をとことん演出。いかにも哀れなふりをしてました…

 

でも。

他人に詰め寄っても何の解決にもならないどころか

最終的には自分で自分の首を絞める結果にしかならなかった。。。

 

こちらの気の強さや執念深さに相手が根負けして

表面的には自分の望む結果を得られて勝ち誇った気分でいても

見えないエネルギーフィールドでは自分で自分を追い込んでいただけなのです。

エゴ全開で自分の波動を下げまくり、思うようにいかない日々を創造していただけだったんです。

 

このシステムの巧妙なところは

波動を下げまくったからと言って、すぐには状況が悪化しないところです。

「出した波動が返ってくる」というブーメランの法則で言うところのブーメランは

忘れたころ…のど元過ぎて熱さを忘れたころにしか返ってきません。

 

要するに、しばらくは何事もなく過ごせたり、そこそこ安泰に過ごせたりする(・・;)

だから因果応報が起こったことになかなか気付けません。

でもわからないくらい少しずつ…しかし確実に

望まぬ状況が自分の外堀を埋めていってました。

 

ある日気が付けば、どんでん返しのような出来事が目の前で起こる。

「あの時蒔いたネガティブの種」が、水面下で目を出し花を咲かせて実を結んだわけで、

その実を収穫するのは、他ならぬ自分自身。種を蒔いた張本人。

泣こうがわめこうがその状況をどうにかすることは、もはやできませんでした…自業自得ということです。

 

今はどうかというと。

例えば腹の立つ出来事なら、なぜ自分はそれに反応したかを徹底的に検証しています。

自分の中のどんな闇がその反応を引き起こしたのかを、思考を使ってとことん内観するのです。

相手に対してもちろん腹は立ちます。

でもその怒りはそのままで良しとして、どうにかしようと考えることをやめます。

怒りは怒りのままにしておき、それとは別の次元で高次の解決方法を考えるのです。

相手は間違っていて自分が正しい!というその考え方こそが自分を苦しめているのだ、

目を覚ますべきは実は自分の方なのだ!とひたすら自分に言い聞かせます。

 

人間一度に複数の物事に集中することはできないようなので

どれほど怒っていても、「ん?待てよ…この怒りっていったい…?」と

怒りそのものについて前頭前野で分析を始めると

わたしの場合はですが、一時的にでも「怒りはちょっと横に置いといて」状態になります。

 

それに、相手に対して腹が立つとは言ってもよくよく考えてみれば

相手はあくまでも「その人にとっての正解」をアウトプットしているに過ぎません。

それなのに

「あなたには正解でもわたしには不正解だ!あなたの価値観をわたしの価値観に変えるべきだ!」

と強制的に相手の価値観を変えようとすることは

とんでもなく愚かなことであると肝に銘じています。

 

できることと言えばせいぜい「わたしはそれを不快に感じます」という感覚を伝えるくらいです。

受取拒否に遭えば普通に悲しかったりもしますが、受け取るも受け取らないも相手の自由。

それよりも自分はいったいどういう在り方をすればいいかを必死で模索しました。その答えが

 

「外側にはアプローチしない」

 

ということだったのです…わたしの場合は、ですが。

それでも相容れない人というのはどうしても出てくる。すべて思い通りにはなりません。

そんな時は静かに離れるだけです。物理的に離れられないなら意識を離します。

 

以前ならそんな相手とは徹底的に闘っていたのでしょうが

それがどんなに無意味なことか、いや無意味どころか極めて有害なことだとわかってからは

もう本当にこれはやめなければと強く感じました。

 

かつて…嫌なことや嫌な人に自ら進んで関わっていっては不毛な闘いを続け

それによってさらに怒りの種を増やしていた自分…

気付けないという状態がどれほど自分を苦しめていたかが理解できました。

 

最小限の労力で最大限の結果を得る秘訣は

「すべて内部で片付ける」つまり自分で自分を浄化するという自浄作用でした。

 

自分だけの問題だったのです。自分の奥深いところにある闇が引き起こした現象。

その闇があるから、「あんな言葉」「こんな言い方」「そういう態度」「こういう状況」

にいつも無意識に反応して感情が荒れる。そこからはエゴのやりたい放題です。

 

「恐れを生み出すシステム」が作動したら、外側を何とかしようと躍起になるのですが

いくら外側をどうにかしても、原因となる闇が自分の中に潜んでいるかぎり

繰り返し同じようなことが起こるのは火を見るよりも明らかなのです。

ならば古いプログラムをアンインストールし

新しいプログラムをインストールする方が、システムを正常化するには賢明な措置と言えるのです。

 

怒りのエネルギーは有効に使えます。自分を変えることに。

そのかわりそのエネルギーを外側に向けた途端、良くない形で自分に返ってきます。

内側に向けた時だけ、自分をバージョンアップさせる可能性が生まれるみたいです。

 

内側に向けると言っても、自分に怒りをぶつけるという意味ではなく

「この怒りを、自分を成長させる原動力として使う」と揺るぎなく決意することです。

 

使い方なんですよね…要は。

湧き出してくるものに良いも悪いもない。コントロールもできない。

ならば湧出したエネルギーは有効活用した方がいいに決まっています。

 

どのような形で利用すれば自分にとって本当の意味で有益に使えるか、メリットを生み出せるか。

それを考えるための思考であって、どうやって相手に仕返しするかを考えるためではない。

怒りのエネルギーも思考も、ちゃんと使えば自分のためになるツールなのです。

 

「怒り」は、エネルギーの量も多く勢いも強いので

正しく使えばそれなりに大きなメリットを享受できますが

使い方を間違えればとんでもない結果を招く、まさに諸刃の剣。

コントロールできないほどの激しい怒りは、人生詰んでしまうようなことさえ簡単に起こします。

 

エネルギーをうまく使いこなすためには自分のエゴを見極めなければなりません。

エゴを見極める能力は、どれだけ自分を客観的に観察できるかという能力に繋がります。

無意識まかせに生きていれば、エゴを見極めることは至難の業です。

自分を苦しみの淵に追いやらないためにも、自分を客観視する努力を惜しまないことです。

 

そういう努力をしている時は、必ずと言っていいほど高次の存在が手を差し伸べてくれます。

小さな奇跡が起こり、それに気付いて思わず感謝の念が湧いてきます。

正のスパイラルも負のスパイラルも、自分が創っているのだと実感する瞬間です。

 

自分が観ている世界は、周りの誰かや何かが創るのではなく

自分の解釈が創っているのです。

 

無意識にしろ意識的にしろ、すべては自分が蒔いた種…

それが芽を出し花を咲かせ、実を結んでいるに過ぎません。

ただしどんな実がなるかは、当然ですが何の種を蒔いたかによる。。。

その種蒔きこそを、わたしはこれまでの長いあいだ無意識でやっていたということです。

 

無意識のプログラムに操られ、苦しみの種を延々蒔いてたことを考えれば恐ろしい…ガーン

そりゃ苦しみもするわと思う。

でも今はそれに気付けたし、なんとか自分でそのつど軌道修正ができるようになりました。

 

今のわたしが観る世界は、かつて観ていた世界とはまるで違う景色ですが

現実的な環境で言えばほとんど変わっていません。

解釈が変わったことで、観える世界もがらりと様子を変えたのです。

 

意識が先。現実があと。ということを考えれば

これからタイムラグを経て現実的な環境がそのうち変わっていくのだろうと思っています。

で、ここが大事なところ。ついつい

「意識を変えたんだから現実もいいように変わるはずだよね!いつ?まだ??」

と、もどかしく思うのは仕方ないとしても、その焦りさえも客観視です…

「天の神さまにおまかせします」と、普遍の法則が作用するのを待つのみです。

(↑若干自分に言い聞かせてますけどね、そんな自分をオモロイと笑う)

 

気付きというのは本当に尊いものですね。

人間の意識がもたらす可能性は無限なのだと感じます。。。