幕末期の下関の光景
今日は久しぶりに傘を持たない出勤スタイル。
どうにもこうにも傘を持って電車に乗ると、
車内での読書がし難いシュチエーションになりがちで、
ついついフラストレーションが溜まってしまいます。
さながらそんな日々が今週は続いていましたので、
今朝の通勤電車は、久方ぶりにじっくりと本を眺めることができたのです。
そんな状況で、普段のスタイルに戻った感じとなりました。
ところで今日は、
昨日のブログで紹介した幕末期の雑誌・新聞の切抜きについて少々。
今回、馴染みの古書店で購入した雑誌と新聞の切抜きの4枚のうち、
2枚の紙面上部には「Gleason’s Pictorial Drawing-Room Companion」という
一見して媒体名のような名称が付けられていました。
これを調べてみて判ったことは、
グリーソン氏が1851年にマサチューセッツ州ボストンで出版した雑誌名のようです。
「花魁」が描かれた方の右下部には、
人がペンで記した「Feb 25 1854」の文字が薄らと読み取ることができます。
(四角い赤で囲ったところに日時が薄く書かれています。)
「1854年」は和暦で「嘉永7年」で、ペリーが浦賀に来航した翌年の日付です。
(ちなみにペリーは、この年に再来航しています)
さらに「Pictorial Drawing-Room Companion」をネットで調べていくと、
今度は「日本人武士4人の正装姿」と同じモノをウィキペディアで発見。
そのクレジットに目を遣ると、こちらは「1854.3」とあり、
両方とも一週間ほどの違いでしかありませんでした。
そして「花魁」は120頁で、「日本人武士」は41頁。
雑誌発刊の性質上から推測するに、
多分同じ号に掲載されていた紙面が、切り分けられた可能性が高いと思われます。
ということでこの切抜き自体の出自のことはよくわかったのですが、
「花魁」の方の下部に描かれている風景のクレジットに目を凝らしてみると、
「VIEW OF SIMONOSEKI.JAPAN」とあり、
大小の船舶の往来とその賑わい、くわえて海岸にひしめき合うように建てられた建物、
それらから推測すると、
嘉永7年もしくはそれ以前に描かれた下関港の公算が極めて高いと思われるのです。
仕事柄、これまで数々の図版を目にしてきていますが、
明治維新へと突き進んだ多くの志士たちが集った幕末の頃の下関の光景を、
これまで図版などで見た記憶があまり残っていないのです。
そんな観点でこの下関の挿絵をみると、非常に貴重な一枚に思えてくるのです。
ではそれをどう証明することができるのか、それはまた明日のでもお話ししましょう。