『自分教』ガイド

世界の様々な思想・哲学・宗教を探査し、最後にたどりついたのは『自分教』でした。
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テーマ:

みなさん、こんにちは。とうしんです。
5月、花と緑の季節ですね。気候も温暖になりとても気持ちの良い毎日です。いかがお過ごしでしょうか。

さて月刊「自分教ガイド」、今月は前回の続きとなります。

テーマ:自我の正体②「見られる私」~ヌーソロジーの大発見~

今月もまた、アメブロ1回分の記事容量限界までいく長文になってしまいました(爆)。

大きく前半と後半に分けましたので、読みやすいとは思います。

【前半:「本当の私」を探す旅とその挫折】

【後半:「自我=見られる私」~ヌーソロジーの大発見】


文字数が惜しいので前置きはこれくらいにして

それではさっそく始めましょう。
 

 


【前半:「本当の私」を探す旅とその挫折】

●探求の二つの方向性

探求には二つの方向があります。そのひとつは、世界とは何か?宇宙とは何か?・・・と外に向かっていく方向。もうひとつは、私とは何か?・・・と内に向かっていく方向です。そうではないでしょうか。そしてこれらは自然な探究心の顕れです。無知の状態で生まれて来た私たちですから、その無知を克服しようともがき出すのはごく自然なことです。

それで内側に向かう探求、つまり私とは何か?・・・ようするに知りたいのは「私」についてなのです。もしもある日コンピュータが意識を持つようになったとしたら、その最初の質問は「私は誰?」ということになるでしょう。木の人形に生命を宿したピノキオの第一声も「ボクは誰?」だったに違いありません(と勝手に推測)。

自我とか意識とかは、結局のところ「私について尋ねるもの」だと思います。私とは誰なのか、私とは何なのか、と。そこでまず最初に、私とはこの肉体か?と思います。私の体?と。しかしよく見ると「私〈の〉体」となって、間に「の」が入っている。つまり私と体は別だ、私=体ではないということに気がつく。

だったらこの心が私か?と。私の心?・・・あのデカルトの「我思う」ですね。で、これも同じく「私〈の〉心」で、間に「の」が入る。つまり私=心ということではないらしい。私と心は別なんだと。デカルトの場合は「我思う、故に我あり」でしたが、そう思っている「我」はどこにいったんだ?という話になる。

そこで「本当の私」の探求となります。通常思っている「私」よりも、もっと深い「根元の私」。いわゆる「真我」です。言葉の定義はいろいろあるでしょうが、自分教的には真我=本当の私ということでいいでしょう。すると、それ以外の私は「仮の私」ということになります。


●覚醒者の登場

内側を知ろうとする旅は必然的に「真我」を探す旅となります。「本当の私」を探す旅。それでいろんな人が真我について語り出す、いろんな言説が出てくる。「真我を発見した」というのは「私は悟った」「私は大悟を得た」と同じ意味です。覚醒者の登場です。

それぞれの人が魅力的な説を展開していますので、探求者にとってはどれも大変参考になります。この段階で覚醒した人はまだ少数です。その誰もが大変ユニークで、カリスマ性があります。そうならざるを得ません。最初はごく少数の人にそれが訪れるからです。一人のカリスマの元にたくさんの人が集まるようになります。

ところで冬にバケツの水が凍ることがありますよね。私が幼少期を過ごした京都の冬はとても寒く、玄関先の防火用水に張った氷を割るのは凄く楽しみでした。それで氷が凍るときは一体どこから始まるのでしょうか。水から氷になる、その最初の1点、氷始めの1点にあたる氷分子はどれなんだろう?とか。子供の頃からよくそんなことを考えたものでした。

面ができる為には最低3点が必要です。点が線となり面となる。しかしながら、面には「厚み」がありませんから、現実に物質として現れるためには最低4点が必要です。4点で構成される最小の立体、つまり四面体。宇宙の最小単位は四面体であろうという予測がここに立ちます。このことを大変分かりやすく教えてくれる人がバックミンスター・フラーです。フラーは学者ではなく、市井の人であるという点に凄く好感が持てますね。

さてそれで、氷も始めは4点からだろうなぁと予想されます。これは実証的な話ではなく、あくまでも哲学的、形而上学的な考察です。そしてこの4点は同時でないといけないでしょう。4点は同時存在です。であれば、もしもいわゆる救世主さんがいるとしたら、最低4人同時に出てこないといけないのではないでしょうか?我こそは救世主だと主張する人は大抵自分だけが特別です。それ、おかしいと思うけどなぁ。(これは古いスピに捕まってる人に対しての話ね。いまどきのスピは救世主なんて語りませんから。あしからず。)

話が脱線して失礼しました。言いたいことは、覚醒もバケツの氷が凍る現象に似ているのではないかということです。最初は少数の人から始まって、それが周囲に影響を与えて伝播されていく。それである段階から「氷」という塊となって顕在化してきますが、もうその時は誰が最初に覚醒したかなんて全く分からないし、そんなことはどうでもいい状態になっている。そうではないでしょうか。
 

 


●「あの体験をもう一度」症候群

さてこのように内側を知ろうする旅、「真我」「本当の私」を探す旅は、最初に「ボク、見つけたよ」という人から学ぶケースが多くなります。ところがこの旅は途中で挫折してしまいます。何故でしょう?それは真我と出会う体験(見性体験)は誰にでも起こるのですが、それが束の間の出来事だからなのです。そしてその再現が難しい。

見性体験は、再現しようという意図を嫌います。それは偶発的に訪れる、まさしく恩寵です。ですがその体験があまりに甘美である為に、それに執着し、それを追いかけてしまいます。「あの体験をもう一度」症候群です。探求者は必ずこの段階に捕まります。

辛いのは、体験で一度法悦を感じてしまったら、現実との落差が大きくなることです。一瞥体験の強度が大きいほど、落ちる闇も深くなります。この段階は精神状態の上がり下がりがとても激しくなります。

体験はすぐに過去のものになってしまうのですが、ある人は語り部になることで自身の命を繋ぎ止めようとします。探求参入者と過去の一瞥体験をシェアすることで、それを聴いた参入者の目覚めの恩恵を受けることができます。そうやって命を繋ぎ止めるのです。

自身の体験とそこから来る感覚を神秘的に語るほどに聴衆のウケがよく、それによって語り部自身が受ける恩恵も大きい。はじめは相手を導く方便だったつもりが、いつの間にかその方便に溺れていくようになる・・・不幸にもそこに外部依存と癒着の関係が始まります。

そのまま続けると語る方の内側では分離が進行し、聞く方はどんどん依存状態になっていく。正直な語り部はここで限界を感じ、語ることをやめます。クリシュナムルティはその例でした。彼は自身の為に準備された教団を開始から数年でいきなり解散してしまいます。以後は一人での活動に徹するのですが、それでも最後まで神格化されたイメージと、依存的な聴衆の傾向に苦悩したに違いありません。


●クリシュナムルティの失意

このように方便は大変有用ですが、注意を怠れば語り部と聴衆が共に分離の穴に落ちてしまう危険性があります。方便を嫌ったクリシュナムルティは正論を貫こうとしました。しかしながら、そんなクリシュナムルティの真意を理解するにはまだまだ時が必要でした。ここに探求者の一人だった翻訳家の高木悠鼓さんの意見が参考になります(スターピープル55号記事より抜粋)。

『私は彼の言うことに魅了され、彼の言うことは究極の真理に違いないと確信し、本当に熱心に読んだものだ。ところが読んでも読んでも彼の言ってることがさっぱり理解できない。彼は繰り返し原初のあるがままの現実を語る。それに対して誰かが「ではどうやって(how)その状態に達するのですか?」と尋ねると、彼は「いったん人が、どうやって(how)を尋ねたら、いまここからはずれて、マインドは未来に向かっている」と苛立ちを隠さない。』

『私は世俗のことからスピリチュアルまで、とにかくhow(方法論)を知りたがるタイプだったので、クリシュナムルティの「真理に至るhow(方法論)はない」の言葉を聞いて、いつも挫折を感じたものだ。次第にクリシュナムルティを読むことがひどいストレスになって、5年ほど読んだ頃、彼の教えを投げ捨て、別の教えを探すことにした。』

正論を貫くクリシュナムルティに戸惑う探求者の姿がよく分かります。クリシュナムルティは晩年、「他の場所より多く語ったインドさえ、自分の話を聞いて変化した人はおらず、人々は自分の教えを充分に活用していないし、真剣になっていない」と述べたそうです。やはり彼は失意の内にその生涯を終えたようでした。
 

 


●探求を終わらせよう~ノンデュアリティ

長い前置きでしたが、ようやく本日のお題に近づいてきました。ですがその前にもう少しだけ寄り道を。ここ数年スピリチュアル界の新しい潮流と言われている「ノンデュアリティ」ブームについて。

いままで人間の内なる探求、「本当の私」を探す旅とその困難さについて述べてきました。ですが「本当の私」というゴールについて、実は誰でも最初から分かっているのです。それは「いま・ここ」であり「あるがままの現実」です。自分がいま迷子であることを知っているのは、帰る家があるからです。そうではないでしょうか。

その帰る家というのが「いま・ここ」「あるがまま」。しかしそれが見いだせない。なぜなら今という瞬間は過ぎ去ってしまうからです。人間は今に生きることができず、もう戻れない過去への後悔に囚われ、いまだ訪れていない未来の不安に悩む。ずっと妄想の中にいる、分かっちゃいるけどやめられない、だから苦しいんだ~と。

悟り、見性体験というものは「いま・ここ」の真実を垣間見る体験です。ところがその体験は捕まえることができない為に、体験後にまた新たな困難が生じる。それがいままで述べてきたことです。

その見性体験に対して、斬新なアプローチが出てきた。それが流行のノンデュアリティ。その本質は「私はいない」・・・その見性体験を経験する私など端から存在しない・・・ということです。見性体験というのは「私がない」体験、無我の体験なのですから、「誰かがそれを体験する」というアプローチを取る限り絶対にたどり着けないということ。あたかも迷路をゴールから逆に辿るようなアプローチですね。

これは探求、つまりスタートから順に辿るやり方ではゴールにたどり着けないということを言っているのです。そもそも探求するのは無知だから、迷子だから。それが自我の特徴でした。自我は無知というスタートから探求を始めるのです。しかしそのゴールは無我の状態なのですから、自我が探求する限りゴールには至らないのです。いやはや何とも。

 


じゃあ探求は意味ないんですね?・・・ノンデュアリティからの答えはYESです。ということで一切の探求をやめましょう、もう探求だけでなく、全部終わりにしましょう、何かをすることをやめましょう、となります。「Doing Nothing」ですね。

なるほど、この「全部やめてしまった人」と一緒に過ごすのはかなりインパクトがあります。この「全部やめてしまった人」からのメッセージによって感化され、近年その領域を体験をする人が急激に増えてきました。悟りの量産体制・・・それがノンデュアリティ(非二元)ブーム。

これ自体は何の問題もないし、それどころか間違いなくこれで「個人」は解放されます。大変素晴らしいことです。しかし問題なのは、この領域を維持するために「Doing Nothing」をやり続けなければいけないということ。「探求しない」という態度をとり続けることで、いつの間にか閉鎖的になっていきます。他からの情報を一切受け付けなくなる。この領域に入った語り部の目がどこか浮ついて感じられるのはその為です。

それにこの道を真剣にやり続ければ、最後は虚無に飲み込まれてしまうと以前の記事で指摘しました。この道を本当に貫いた人の中には、若くして亡くなるケースが散見されるのです。「色即是空」を悟ったけれど、さらに「空」に留まろうとするのですから、最後は「空しく」なるのは当然です。でも大抵は生命自体が持つ防御反応があるのでそこまでやろうとはしません。

「色即是空」まで行ったら、今度は「空即是色」で帰ってくる。しかしそれは、そのまま引き返してくることではない。それではただ膨張してから収縮して元に戻っただけ。これだとその悟った人は唯物論者と同じ状態になります。

唯物論者によれば精神とは物質が活動する結果として生じたものです。人間の精神活動はすべて脳機能で説明できるとする「唯脳論」などもそう。徹底した唯物論の達人は精神活動に惑わされることはないのですから、無我を悟った人と同じではないでしょうか。実際にそうなのです。徹底したノン・スピリチュアルの人の方が内実共に悟っているようなケースは多いのです。

ちなみに自分教的にはこの唯物論を「スピリチュアル0(ゼロ)」とカテゴライズしています。そしてスピ1.0~スピ2.0と進み、ノンデュアリティ・ブームはスピ3.0です。ノンデュアリティは既存のスピリチュアルよりも一歩進んでいると評価します。ですがそのままだとスピ0に逆戻りしてしまう。そのターニングポイントが「空即是色」にあります。

空まで膨張して、そのまま色に戻ったら、単なるスピ0、唯物論と同じ。そうではなく、空まで膨張して、そこで「反転」して色に戻るのです。その戻ってきた位置は、元の位置とは全然違います。方向性が完全に裏返っている。そうやって辿り着いたゴールは「無我」ではなく「真我」となります。これがスピ4.0。そうです、本日のテーマである「ヌーソロジー」の世界観です。ああ、ここでやっと繋がりました!

これでやっと本日のお題に突入できます(笑)。
本日のテーマ『自我の正体②「見られる私」~ヌーソロジーの大発見~』、いよいよここから始まりです。お時間のある方はここで一息ついてください。それ以外の方は、さっそく始めましょう。

 

 


【後半:「自我=見られる私」~ヌーソロジーの大発見】

●ヌーソロジー登場!

人間が内側の探求をするのは、「本当の私」を探すこと、「魂の故郷」へ帰ること、つまり「いま・ここ」「あるがまま」を取り戻したい、ということに尽きます。それを垣間見る体験は「一瞥体験」とも呼ばれ、ほんの一瞬の出来事ですが、それは永遠であり、それは全体であり、完全です。それを見たとき過去の重荷は消え去り、未来の不安は消滅し、一切の疑問は消え去り、ただひたすら表現しようのない安堵感に包まれます。

探している人がそれを見たら「見つかった!」と叫ぶでしょう。苦労して求めてきた人がそれを見出したら「全てが終わった!」と歓喜の涙にむせぶでしょう。

しかしながらそれは「流れる時間」の中に属さない「永遠の今」であるために、振り返ることができません。そして「誰か」が体験するというものではないために、誰も語りようがありません。この難しさに対して、正論を貫くが故に伝わらなかったのがクリシュナムルティの失意でした。

ノンデュアリティというのはそれを導く一つの「方法論」でした。その体験が「無我」であるということに着目し、最初から自我的行為をすべて潰していくという方法論をとります。「自我など端から存在しない、全体しかない」というゴールからの逆アプローチです。クリシュナムルティの「凝視」に比べると、「一瞥体験」へと導く破壊力はノンデュアリティに軍配が上がったということでしょうか。

しかしながら、そのノンデュアリティの方法論では「空」に行きっぱなしになる、「色」へと帰って来たとしても唯物論者もしくは俗物(スノッブ)、帰れなかったら虚無か廃人・・・多少大げさですが本質はそういうことです。

さてそこでヌーソロジーの登場。ヌーソロジーは既存のものと何がどう違うというのでしょうか。

ヌーソロジーは半田広宣さんの提唱する宇宙論・哲学大系です。事の発端は1989年に冥王星のオコツトを名乗る意識体からのチャネリングメッセージ。その異質な体験と受け取ったメッセージの解読作業の中から、壮大なる宇宙哲学大系を単身一人で紡いでこられました。

私がこのヌーソロジーに出会ったのは2009年、プロフィールにもあるように、ヌーソロジーに出会ったことで「全てのパズルのピースがそろった!」となったわけです。

ではそのヌーソロジーの何が斬新で凄かったのか。それは今まで見てきた人間の精神性の問題、自我やら無我やら悟りやらといった人間の本質に関わる問題を、全部幾何学の問題として、空間認識の問題として整理・解決しちゃった!ということなんですね。

本日はその中でも「自我の正体②・・・見られる私」について見ていくことにしましょう。

 

 


●カタチの世界は永遠

悟り、一瞥体験は瞬時の体験でした。瞬時、「いま・ここ」とは「時間のない世界」です。人間が普段活動し会話し対処している世界は「時間のある世界」(流れる時間の世界)ですから、この世界においては悟りを表現することもできないし、共有することもできない・・・それが問題の本質であったように思います。

しかし、本当にそうでしょうか。果たして「時間のない世界」は表現し共有することができないのでしょうか。それはそんなに難しいことなのでしょうか。

いいえ、そんなことはありません。その答えは幾何学、つまり「カタチ」の中にあります。「カタチ」です。

一番簡単なカタチである「円」について考えてみましょう。「円」とは下図のようなカタチとなります。実は私たちが「円」を認識するとき、すでに「時間のない世界」を認識しています。どういうことでしょうか。

 

時間のある世界で表現する時、円は点の軌跡:X^2+Y^2=R^2を満たす点(X,Y)の集合となります。実感が湧かないようでしたら、実際にいま目の前のPC画面に出ている円は「X^2+Y^2=R^2」のプログラムで描かれている、と言えばどうでしょうか。事実、目の前のPC画面はコンピュータがもの凄いスピードで計算して動いているその結果が表示されているのです。

ところが私たちは「円」を一瞬でカタチとして認識します。円以外のすべてのカタチ、三角形であれ、四角形であれ、カタチの認識は一瞬です。この認識はあきらかに「時間のない世界」で起こっているのです。

幾何学はそういう「時間のない世界」、永遠の相を表しています。それをイデアといいます。プラトン以来、宇宙の本質・真理を愛し探求する人がみな幾何学を愛するのはその為です。

悟りの問題も「カタチ」の問題として取り組めば、今までの混乱から抜け出せるのではないでしょうか。そこで冥王星のオコツトは、人間にまつわる全ての問題の根本を、空間認識の問題として提示して来たのです。

※人間型ゲシュタルトが自我を生み出しており、人間の意識の方向性の反転によって、自我は働きを失うでしょう シリウスファイル19900211

ゲシュタルトというのは認識の枠組みのことです。「人間型ゲシュタルト」とは人間固有の空間認識のあり方について、オコツトが指摘してきたものです。対義語として「変換人型ゲシュタルト」があります。

※変換人型ゲシュタルトとは、あなたがた地球人が21世紀以降に持つ空間認識のプログラムです。現在の地球人の空間認識は歪曲しています。その歪曲が正しい宇宙的理解からあなたがたを遠ざけてしまっているのです。その歪曲を正常な状態に戻す働きが変換人型ゲシュタルトの役割です。(「人類が神を見る日」より)

私がはじめてこの箇所を読んだとき、全身の細胞がざわめいたのを覚えています。これだ、これだったんだ、探し求めていたものは!と。私は悟りという境涯やその世界を語ってくれる人を探していたのではありませんでした。そこに至る具体的な道を、その構造を探していたのです。その後、オコツトのメッセージとそれを解読したヌーソロジーは、私の期待を遙かに凌駕する叡智と体験を授けてくれることになりました。

 

 


●4次元対称性

ここからは、人間型ゲシュタルトを解体することが目的になります。人間型ゲシュタルトを解体することと変換人型ゲシュタルトを産み出すことは同じことです。ゲシュタルトの問題を扱うとき、以下のだまし絵がよく出てきますが、この絵において、若い女性が見えている時は老婆は見えず、老婆が見えている時は若い女性が見えません。ゲシュタルトにはこういう排他的な性格があり、一つのゲシュタルトを採用する時は、別のゲシュタルトは後退せざるを得ないのです。

 


それでオコツトはあの手この手で人間型ゲシュタルトを解体する手ほどきをしてくれるわけですが、まず手始めに「4次元対称性の発見」を伝えて来ました。

2次元対称性は平面、3次元対称性は立体における3方向(縦・横・高さ)の対称性となります。これは現実の空間において上下方向は入れ換え可能ということを意味します。人間は約500年前の大航海時代に入ってから、地球が球体であることを直接認識するようになりました。この球体認識によって、上下方向・天地方向が入れ換え可能であるこを知るようになったのです。

こうやって3次元対称性を得た人間は、上下方向の差別から解放され、自由・平等の概念を獲得し、その結果として封建的な社会や独裁的な体制および身分差別制度を次第に崩すようになります。これが近代以降の流れです。

3次元対称性を獲得した人間は、次に4次元対称性の発見に進むことになりますが、現在の人間社会はここで引っかかっているのです。オコツトによれば、4次元対称性を獲得することが、そのまま人間型ゲシュタルトの解体を意味しているといいます。人間型ゲシュタルトが自我の原因なのですから、その解体とは「自我の解体」を直接意味します。

クリシュナムルティは「自我の終焉」を宣言しました。彼はその方法論として「凝視」を教えてくれたのですが、例の高木さんの苛立ちと絶望に見られるように、一般人にはハードルが高いものでした。

さしずめノンデュアリティは「自我の放棄」という感じです。しかしこれは人生ゲーム自体の途中退場という感が否めません。確かにそれで解放はあるのでしょうが、もしもそのゲームに続きや真の意味があるとしたら?・・・そもそも必要の無い自我をなぜ持つようになったのか。

オコツトの言う「自我の解体」とは、これら疑念に対して期待以上の解答を用意してくれるものでした。

 

 


●4次元対称性とは空間の内外対称性

では4次元対称性とはどのようなものでしょうか。それに対してオコツトはいろいろなアイデアを提示してきます。時間と空間の対称性、ミクロとマクロの対称性・・・これら全てに通じるその本質をずばり言えば、それは「内外の対称性」となります。内外空間の対称性です。

内と外・・・。「私」について深く探求した人ならば、「私」の問題とは「内と外」の問題でもあるということをすぐに理解できるでしょう。「私」について考えるとき、「私」とは「私」と「私以外」の関係であるということに気がつきます。そしてそれは「内」と「外」の関係です。「私」が「内」で、「私以外」が「外」です。

ここでもしも「内=外・外=内」というような空間認識が生まれたとしたら、内と外との区別が消滅します。それは頑なな「私」という概念の解体を意味するのではないでしょうか。そうです、これがまさしく「自我の解体」なのです。

「内=外・外=内」と言えば、メビウスの帯を思い出します。メビウスの帯は、表裏のある帯が捻れることで、その表裏関係が「表=裏・裏=表」となって、事実上、表裏の区別が消失するという大変不思議なカタチであり、トポロジー(位相幾何学)の分野で扱われる対象です。

 


メビウスの帯は2次元の捻れであり、それは3次元空間上、つまり普段の目の前で確認することができます。しかし「内=外」の場合は、それは「3次元空間自体の捻れ」となって、4次元空間上でなければそのカタチを確認することができません。逆に言えば、この捻れを見出した意識は、すでに4次元対称性を獲得したということになります。

さてそれでは一体どうやって3次元空間自体のねじれ、「内=外」の捻れた空間を発見すればいいのでしょうか。


●反転のコスモロジー

3次元空間自体をねじる、「内=外」にする、ということは、空間の「反転」を意味します。「反転」です。ということは、反転という概念の理解自体が、自我の解体に繋がっているということになります。ヌーソロジーが「反転のコスモロジー」と言われる所以です。

それで反転の本質を理解するために、オコツトは以下の概念操作を教えてくれました。それが「円心」です。オコツトは円心概念について「この概念を人間が正確に理解すれば、覚醒が起こり、宇宙のナゾのほとんどは簡単に解けていくことになるだろう」と伝えて来ています。

 

 


この円心図において、左側の赤円と右側の青円は互いに反転の関係にあります。赤円の円周は青円の中心点となり、青円の円周は赤円の中心点となっています。互いの中心点と円周の関係が入れ替わる関係です。

円心図は2次元の円ですが、これを3次元の球空間に応用すると以下の図Aになります。この構造は球空間の内部と外部が互いに入れ替わる構造ですから、これがすなわち「3次元空間自体のメビウス」の構造を示しています。

 


左側の二重球空間は、中に内部を示す球空間があり、その周囲に外部を示す球空間が取り囲んでいます。右側の二重球空間は、中に外部を示す球空間があり、その周囲に内部を示す球空間が取り囲んでいます。この左右の互いに反転した二重球空間が、ひとつに繋がっている状態が、まさしく「3次元空間自体のメビウス」です。

このような捻れ空間を実際に感覚化することができれば、その意識はすでに「4次元対称性」を獲得しており、あとは自然に「自我の解体」へと導かれていくというのが、ヌーソロジーの斬新かつユニークな発想なのです。ではもう少し詳しく見ていくことにしましょう。


●見られる私

上図Aにおいてまず左側の二重球空間に着目します。これは私たちが普段の生活で普通に感覚化している空間として理解できるでしょう。内側の球空間は「私」という自意識の場所として感覚化されている領域です。自分の内側の世界です。外側の球空間は「私以外」として、外側の世界や対象となる物質、そして他人の存在を確認する世界です。自分の外側の世界です。ここまではいいですね。

 


しかしここで少し立ち止まって考えてみて下さい。いったい誰がどこから「内側」と「外側」を決めているのでしょうか。いやそれは私自身だよ、内側の私自身だ、と答えられるかも知れません。しかし内側の私自身が自分自身の場所を内側と言うことができるのでしょうか。外側を外側と言うことができるでしょうか。

これを分かりやすく別の話で例えてみましょう。あなたが日本国内に生まれてから一度も海外に出たことのない日本人であるとして、しかもテレビやネットなど一切の外部情報がない状態で暮らしていたとします。そうすると「日本国内にいる」という感覚を持つでしょうか?当然そのような感覚は生じようがありません。日本国内にいるなどという自覚がおきるはずがないのです。

このアナロジーで上図左側の二重球空間を考えてみるとどうでしょうか。内側が私、外側が私以外という感覚はどうも疑わしいということが分かります。海外に出たことのない日本人の例と同じく、私は内側から外側へと一度も出たことはないのです。ここでは幽体離脱して外側に出たことがあるよという人は例外として無視させてもらいます(笑)

 

 


私が内側にいるという感覚は、外側からの情報(上の例で言えば、テレビやネットから見聞きする海外の情報)によって「自分は内側にいるらしい」と想像していることが原因です。あくまでも想像上のことです。つまり外側からの視点、架空の第三者による視点によって、私は私が内側にいるという感覚を想像として持つのです。その感覚によって、外側は「私以外」の場所となりますから、ここで内と外の分離が生じます。

内と外を分離させ、「私」という感覚を内側に作りだしている原因は、架空の第三者による視点だったのです。以前のブログで書いたことがありますが、これが「偽客観」です。それは神であったり、常識やルールであったり、言語システムであったり、見かけ上の他者存在であったりします。そしてこれらは全て「想像上の出来事」なのです。

「私」という感覚は、架空の第三者によって「見られる」ことにより生じているのです。これが本日のテーマである「自我の正体=見られる私」ということになります。

ここで「架空の第三者・自我・外側の世界(物質という感覚)」の三者は一蓮托生の関係になっていることがお分かり頂けると思います。これが人間型ゲシュタルトの三位一体(神・自我・物質)です。

オコツトはこの左側の二重球空間の状況を「人間の内面」と呼びます。これは架空の第三者の視点によって構成されているという点で、幻想であり仮相(仮の姿)なのです。


●「あるがままの風景」が心の本当の姿

今度は右側の二重球空間に着目してみましょう。この空間を感覚化させることができれば、ひとまず「4次元対称性」獲得の目処が立ちそうです。それでこの空間においては中心に外部世界、つまり外側の世界や対象が来ています。それをとりまく周辺に内側、私の心の世界と思われる領域が位置しています。

 


この二重球空間の中心点は無限遠点(+∞)、その周辺は0点となっています。先ほどの左側の二重球空間においては、中心が0点、周辺が無限遠でした。左側の空間は観測者から外側に向かって宇宙大に拡大していく空間を表しているのに対して、この右側の空間は観測者が一番外周にあって、そこから中心の無限遠点に向かって縮小しています。この空間は一体何を表しているのでしょうか。

ここは難しく考えず、ごく自然に考えてみて下さい。・・・これって私たちが自然に目の前で見ている風景ではないでしょうか。一番手前、自分自身が一番巨大な存在であり、そこから遠ざかるにつれて全ての存在は縮小していきます。大きな東京スカイツリーも遠くにあれば小指ぐらいのサイズです。そしてどんどん遠くに行って、宇宙の果てにある銀河とか、いかなる大きな存在もすべて中心の無限遠点の中に飲み込まれていきます。

そうです。右側の二重球空間の正体とはごくごく自然な、あるがままの風景だったのです!私たちは遠近法だとか、太陽の大きさとか天文学などの知識が情報として頭にあるために、こちらのごく自然な見方を忘れていたのです。

こちらの空間の方が真実だということは、太陽と月の見かけの大きさがほぼ同じであるという奇跡が物語っています。太陽は月の大きさの約400倍ですが、その両者の見かけはほぼ同じです。これを偶然で片付ける方が狂っていると言わざるを得ません。そうではないでしょうか。

このごく自然な見方こそが、私たちの心の本当の姿であり、あるがままの実相です。そしてこれが探求者が探し求めてきた見性体験の場であり、悟りの世界なのです。

オコツトはこの右側の二重球空間の状況を「人間の外面」と呼びます。

 

 


●前と後ろの空間はねじれている

さてこれで図Aにおける左右の球空間の実質的な意味を感覚化させることができました。最後に仕上げとして、この二つの球空間同士の関係性、その構造をリアルに感覚化できれば「3次元空間自体のメビウス」が見える意識、4次元対称性の獲得となります。これで晴れて人間型ゲシュタルトの解体です。

先ほど上図Aにおける左側球空間を「人間の内面」、右側球空間を「人間の外面」としましたが、オコツトはこれについて、さらにシンプルな説明をしています。

※人間の外面とは目に見える世界のことです。人間の内面とは目に見えない世界のことです。シリウスファイル:19901213

これを解説したのが以下の図。人類が神を見る日アドバンストエディションP367において掲載された図です。半田広宣さんをして「たったこれだけのことを明確にするまで、何年の月日を費やしたか分からない」と言わしめた、これ以上削りようのない究極の解説です。

 


この図をさらに簡略化して、異なる二つの方向性を強調したのが以下の図。図で青色の矢印が「人間の外面」、赤色の矢印が「人間の内面」の方向性です。

 


要するにこれは空間における前と後ろのことです。人間は普段生活している現場において、耐えず前の空間(見える空間)と後ろの空間(見えない空間)という異なる二つの空間を引き連れているのです。この二つの空間の違いを現場においてありありと感覚化させることが「人間型ゲシュタルトの解体」です。

前と後ろ、それぞれの矢印を半径とした球空間を作ると以下の様に二つの方向性の異なった球空間が出現します。

 


どうでしょうか。赤色の空間「人間の内面」には観察者の肉体・顔が現れ、青色の空間「人間の外面」には肉体・顔がありません。この場合の肉体・顔とは自意識のことであり、「見られる私」のことです。これがヌーソロジーが発見した「自我の正体」ということです。

よく見るとこの図における二つの球空間の関係は、上で説明した図Aと左右の配置が違うだけで内容は同じだということが分かります。青色の球空間が図Aの右側の二重球空間に相当し、赤色の球空間が左側の二重球空間に相当します。3次元空間自体のメビウスです。

私を中心として、前と後ろでは空間自体がねじれて反転している・・・よく考えればこれはごく自然な認識です。私たちは後ろは振り返ったら見れるじゃないかと思ってしまいますが、振り返った時は、今まで前だったところが後ろになっています。振り返るだけでこのねじれが解消できるなど思ってもみるな、ということですね。

さらにもう一つ重大なポイントがあります。「見られる私」のある空間・・・自我そのものである空間は「後ろの空間」であり、それは「人間の内面」、すなわち「見えない領域」なのですから、そこは見えない想像上の空間です。私たちが自意識・自我を感じる時は、すでにこの「見えない想像上の空間」に移動しているということなのです。そう考えると、普段の私たち人間の生活は、ほとんどこの想像上の空間で生きているということになります。自分の名前や住所、顔やIDがあてがわれた世界とは想像上の世界だったということです。

さあこれで4次元対称性を獲得して人間型ゲシュタルトを解体するという、意識進化の第1歩についての理解が多少なりとも得られたのではないでしょうか。そして歴史上数多くの哲学や宗教を巻き込みながら未だ困難の途上にある「本当の自分」を捜す旅、「悟りを得る」旅が、明快な幾何学の問題として解決しうるということを、その可能性を感じて頂けたのではないでしょうか。

ヌーソロジーはこの後も5次元対称性の発見、さらにその先へと続いていきます。5次元対称性とは、自己と他者が一つになった「真の客観」という領域です。人類がこの領域を見出すとき、やがて世界に真の平和が訪れることになるでしょう。

ということで、前回から連続2回に渡ってお伝えして来た「自我の正体」シリーズはこれにて終演とさせて頂きます。まあ何とか格好がついたようで一安心です。

今回も相変わらずの長文に最後までお付き合い下さり、真にありがとうございました。

それではまた、次回の自分教ガイドをお楽しみに。


とうしん

 

 


【業務連絡①】
●5月度ヌーソロジー教室(京都・大阪)

今月は「人間の外面の発見」について

意識進化の最初の1歩である「人間の外面の発見」について
今までの研究成果を整理し、かつ実践的な方法論なども合わせてシェアしたいと思います。

ここしばらく応用的な内容が続きましたが、久しぶりにヌーソロジーの基礎からもう一度おさらいをしていくことにします。

初めての方にはオススメです。


★5/23(火) 京都ヌース教室
場所:ウィングス京都 会議室11
午後6時半~9時


★5/27(土) 大阪ヌース教室
場所:江之子島文化芸術創造センター Room8
午後1時半~5時

 
《詳細と申し込みページ》


お互いの「感じ方」を確かめ合う場として
今後も月に一度のヌーソロジー教室は続けていきたいと思います。


【業務連絡②】
●初級ヌースレクチャーシリーズDVD全6巻

自分教ブログは分かりやすくていいいけれど、ヌーソロジーについて体系的に書かれてないから、きちんと学ぶにはどうしたらいいんだ!というお声を最近よく聞くようになりました。

先日もこの初級レクチャーシリーズDVDの存在をやっとこさ見つけた方から、「もっとPRせよ」とありがたい苦情を頂きました。

ということで初級ヌースレクチャー〈全6回〉DVDシリーズのご案内です。

難解に思われるヌーソロジーですが、このDVDで川瀬統心が分かりやすく解説しています。

最初から順番に体系的に理解したい、でも数学とか難しいのはニガテ、という方に是非オススメします。

ヌーソロジー実学派の統心独自の切り口で、最後まで飽きさせない展開となっています。

全6回、各回DVD2枚組+50P近いテキストがついて税込3780円。

第1回と第6回の巻末には半田広宣さんとの対談も収録されています。

《詳細と購入ページはこちら》


【業務連絡③】
●とうしん、只今鋭意執筆中!

とうしんは今年中に本を出版する予定でいます。

これからしばらく執筆活動に集中するため、長文ブログは今回にてひとまず終了とし、次回からは短い文で気楽に発信するスタイルに移行します・・・と今まで何度も宣言したけれど、結局はその度にますます長文になってきました(爆)

ですが、執筆活動もいよいよ佳境に入ってきたので、今度こそはしばらく長文ブログはお休みする予定です。

短文スタイルでの発信は続けますので、今後ともよろしくお願いします。

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