古代妄想 伝承 地名 歴史 -24ページ目

古代妄想 伝承 地名 歴史

古代人の足跡を伝承や地名に妄想するブログ。

 明治二十二年から昭和三十年まで、檜枝岐より北(下流)の桧枝岐川沿い、舘岩川に合流するところまでの流域に大桃、恥風、内川、大原、小立岩の五村による大川村があった(昭和三十年、合併により伊南村)。江戸期には恥風に合併した(ほう)(のき)村もあった。内川は明治十年の改名前は、舘岩川と桧枝岐川の合流地点を表す落合村となっていた。この合流点より北(下流)が伊南川となる。

 

江戸期には桧枝岐から南郷村鴇巣までの「古町組下」としてまとめられているが、同時に大川村地域を内川郷とも呼んだ(『新編会津風土記』)。内川までは桧枝岐川も舘岩川も峡谷であり、浜野と内川を結ぶ川沿いの道は近代まで交通の難所だった。この内川郷は耕地が少なく稲作が困難なことから、山に生活の資を求める比重が高かった。この地勢から、檜枝岐から内川郷までは山の比重の大きい文化圏という意味で南西の舘岩郷との共通点を持ち、古町組下の内、伊南川となってからの左岸の段丘によって繋がる浜野から鴇巣と、右岸の古町組上(白沢から宮床まで)がまとまりのある生活圏になっていたと思われる(内川郷に対して仮に古町郷と記す)。

 

日光の和菓子やさんで見かけた踊る内裏様とお雛様
 

地名も小立岩の「小」は、舘岩村の村名由来となっている「立岩」を「大」と見ての「小」と思われ、この地名はその昔の生活圏としては舘岩地域にあったことを表している。大桃の間通(まどおり)()も、舘岩の熨斗(のし)()(もり)()(おし)()などと共通の命名法だ(前記事「ド、ド、ド、ド、ドウ」参照)。大原の鳥井戸も熨斗戸の鳥居道と同様に鳥居によるものだろう。もっとも鳥井戸は南郷の山口、只見町小林、田島町針生、永田にも見えるので、舘岩郷だけとの共通点ではない。双六(すごろく)(いり)、中、出戸(でと))は、「ゴロク」が、百目鬼(どうめき)道手(どうで)(ぶち)(熨斗戸)などと同じ擬音による地名か。

 

この内川郷での悩ましい地名は恥風(はじかぜ)(耻風)で、地名に付会したと思われる中世の合戦譚はあるが首肯できない。ハジが土師(陶土)かと考えるが、鎮守の(おに)(わた)神社も土師との関係はわからない。オニワタはニワタリで荷渡りとの説もあるので、舘岩川と桧枝岐川の合流地で、常に川を渡る必要がある恥風には関係が深いようだ。鬼渡神社と祭神の阿須波神、波比岐神はこの流域を下ると多く見られるのだが、川に関係するらしいことと、大歳の神の子神ということ以外は性格がよくわからない。川向いの内川(落合)に祀られる天満宮の祭神、菅原道真であれば、出自が土師氏であることからハジとのかすかな繋がりを見出せるのだが、両部落がハジ(粘土など)でつながるような伝承は見つけられない。鬼渡神社の性格も併せて今後の課題としておくほかない。

 

浜野は伊南川となって最初の部落で、浜野からは東西の山の間隔が急速に広がり、氾濫原に耕地が増えていく。現在も浜野から只見町大倉まで、伊南川左岸の段丘上を約24㎞にわたって一度も伊南川を渡らずに、県道351号大倉大橋浜野線が通じている。対岸は国道が並走する。前述した古町郷としての生活圏を踏まえて考えると、内川郷との境界が強く意識される位置にある浜野は、虫送りや鳥追いなどと同様に、村境で魔を破るための矢を射たという、破魔(はま)射場(いば)の風習を想定して破魔野と考えることを思いつく。しかし文献記録にはその風習は見えない。破魔射場の地名は全国に多いが、浜井場、浜射場、浜弓場、浜矢場等、「破魔」に浜を当てたものは多い。(柳田国男『地名の研究』)。それとは別に「浜」の原義は海浜だけでなく、崖や急傾斜地も含むという(『地名語源辞典』)ことから、浜を当て字ではないとして地形地名と考えられなくはない。しかし「浜」を急傾斜地形にしたとすると、続く語が「野」=緩傾斜地なので、浜と野では語義に矛盾が生じる。海との関係は考えにくいにもかかわらず、湖沼以外の内陸部にも多くある「浜」地名はわからないことを含んでいる。

 

浜野で興味深いのは、駒嶽神社祭神として大山祇と菅原道真を祀っていて、「浜野の開発の頃、駒嶽の嵐が絶えず、天喜元年(1053)鈴木五郎大信から五代目、五郎和政の代に駒嶽神社の神霊をまつった」(『伊南村史・民俗編』)と伝わっていることだ。現在では菅原道真は天神様=学問の神として有名なので、村史も嵐に対して祀られたという伝承との齟齬に、やや戸惑いを見せている。しかし菅原道真が祀られた経緯は歌人や学者としてではなく、雷と疫病をもって祟る霊を天神と祀って宥めたのだから(前記事「05 二人の伊南の神(多々石)」参照)、駒嶽からの雷雨を伴う暴風を鎮めるために、大山祇と共に祀られるには、菅原道真は実にふさわしい。この理由による祭祀は浜野だけでなく、伊南郷や南会津全域にわたって祭神の性格を見直す材料になるかもしれない。

 

二荒山神社中宮祠の牛石に神を感じました

 

北野天満宮は天暦元年(947)、道真の死後40年に創建された。駒嶽神社の神霊を天喜元年(1053)鈴木五郎和政が祀った、とする記事は信頼できるものか疑問がある。『季刊・伊南郷土研究』の鈴木氏の伝承記事中で鈴木氏がはじめ浜野に祀ったのは熊野神社とされている。道真の直系が当地へ落ちてきたとされる伝承も、系図も出来すぎの感があり、北野天満宮の創建から106年後に浜野に祀られるという記事は、当時の情報伝播の速度を想像すると速すぎる気がする。一連の事件が『北野天神絵巻』などの中世仏教的な因果応報の物語になって菅原道真の怨霊が人気を博すのは1300年代で、天満宮の創建から300年以上たってからとなる。

鈴木氏による勧請の記事が信頼できるのであれば、編年上重要な記事になるが、後年にその時期に合わせて記事を作った可能性は排除できないので、ここでは年代考証はせず、菅原道真を祭祀した意識について考えてみよう。

 

菅原道真左遷の関係者が度重なる不慮の死を遂げ、それに続く疫病や、清涼殿への落雷で複数の藤原氏の公家が死亡した事件は、道真の「祟り」と解され、時の最高権力者たちをうろたえさせた。それが物語として広まったことで、菅原道真は当時の最新流行ともいうべき最強の神だった。

 

ながく駒嶽を大山祇によって祀ってきたところに、新来の神の力を加算すべく合祀したものと考えられる。もし鈴木氏が直系であったら独立した天満宮を祀るだろう。隣村の内川も天満宮を祀っている。山神が境内社に押しやられているのは、新たな神への期待の大きさだろうか。

川の落合である内川には、舘岩川の谷間からの風も吹き降ろしてくる。そして桧枝岐川の谷からの駒嶽おろしと合流した風が、狭い峡谷によって加速して、浜野を出口として吹き抜ける。山神との組み合わせが浜野と同じなので、理由も同じ風鎮めだろうと推測している。ただ菅原道真を合祀した風鎮めの意図は、風を宥めるのではなく(それは大山祇の役割だろうから)、怨霊となった道真の霊威を勢いにして、力ずくで暴風を抑え込むような意識ではないだろうか。道真の怨霊はそのような性格を持っていた。それだけこの地域での暴風の被害が大きかったのだと思われる。

 

当時の菅原道真信仰について考えると、神と人間との関係に一つの変化が見出せる。祟り神としての菅原道真の怨霊の属性は、雷や疫病ではなく、「怒り」や「恨み」の感情によって支配される「怨霊」である。感情に支配された怨霊であるが故に、それは祀り上げることで宥め、静めることができるものだと考えられた。そしてその威を人間の味方につけ、利益のために誘導して、従来の荒ぶる神を抑えようという意識が生まれている。

 

古事記においてヒノカグツチは、その誕生時に母神のイザナミを死に追いやることになる激しい火の属性を持ち、イザナギに首を切り落とされてからも、その飛び散り、したたる血からさらなる火や金属の神々を生み出していく。穀物神のオオゲツヒメもスサノヲをもてなそうとして、その食物を口から吐き出した所を見られて、怒ったスサノヲに切り殺されながらも、体中から穀物を生み出していく。そのスサノヲ自身もまた、悪心からではないにもかかわらず、慟哭しても、移動しても、すべての行為が荒ぶる破壊的な行為となってしまう属性(スサ)であるために、高天原を追放される。アマテラスにしても陽光を自らコントロールすることはできないからこそ、世界を闇にするために岩屋に籠らなくてはならなかった。つまり自然を神格化した古い神々の属性は、その生死や状況に関わらず、感情によってその属性を変えることはできない絶対的なものなのだ。忖度の余地が一切ない公平と言える(不器用すぎ・・)。それを前にした人間は、神の属性が少しでも自分たちに有利に働くことを願って祀るしかなかった。それが不利に働く際には、早くその神が去ってくれることをただ願うばかりだった。(前記事「南郷に見る『古事記』の世界」参照)自然を人間の都合で制御することはできない神の時代だった。

 

しかし、このような古風で融通の利かない絶対的属性の神は、時代を経るにしたがって変容していく。祀る人間の側が次第に自然を制御することに力と自信をつけて、欲望を増殖させる。社会の組織化が進み技術が高度化、大規模化していくことにより、それまで神の領域であった分野に人間が進出していく。それにともない火の神は火防の神に、風の神は風鎮めの神に、雷神は雷除けになっていき、当初祀られた神の属性は忘れられて、畏れられる神から、願いをかなえてくれる物わかりのいい神になっていく。そこに国家鎮護から庶民救済、極楽往生へと向かう中世の新興仏教の興隆する余地も生まれた。神々もうっかりしてはいられなかったのだ。

 

同時にそれは定住して農耕をする人口が増えていくこととも比例する。治水や頑丈な建築物や安全な耕作地などの、生活基盤が長期的に安定することが必要だった定住民には、属性のままにしか現れない神は何かと不都合でもあった。神には柔軟性が求められ、それができない際には別の神が次々に祀られる。怒りや恨みによって、もっとも荒ぶる故に、暴風さえも封じる神として山神の領分に後から祀られただろう浜野の菅原道真は、そのあたりの人間社会の変化を良くあらわしている(現代の支配者にも多少は「祟り」を感じてもらいたいものだが)。一方で、神の属性をそのままに使いこなすことによって、生ける神ともされてきた人々とその生業は、消えてゆく運命にあった。その少し先に脳まで作ってしまいそうな現代がある。07へつづく