昔の炭鉱はブラック企業? | 猫好きのブログ

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資格試験とその応用

 炭鉱では落盤、爆発事故がよく起き、炭鉱労働は危険で過酷なものであった。現代のブラック企業以上の怖さだが、実際のところ待遇はどうだったか?

 

 1965年の炭鉱労働者の平均年収は100万円で、全産業平均の2倍であった。同年のサラリーマンの平均月給が27000円に対し、炭鉱労働者の月給は83000円。

 

 とかなり高いことが分かる。尤も月給がサラリーマンの3倍なのは、炭鉱労働者はボーナス0に対して、ホワイトカラーであるサラリーマンは数か月分のボーナスが支給されたからであろう。

 

 福利厚生を見て見よう。

 

 炭鉱には炭住と呼ばれる団地群があった。家賃は非常に安く、ほぼ無料のケースもあった。

 

 光熱水費は炭鉱会社が自前で発電所や水道を整備している場合は無料。石炭は無料支給。炭鉱が経営する公衆浴場も無料。

 

 炭鉱会社が経営する病院も無料。何故なら炭鉱事故やじん肺などの負傷や疾患が多発していたからだ。

 

 以上より、炭鉱労働者の賃金は高く、住宅、医療といった福利厚生も手厚かったと言えるだろう。だから山の中に何万という人が集まったわけだ。

 

 あと危険で高賃金の人ほど、一般的に金遣い傾向がある。それに待遇が安定しているから、翌日には給料が入るし、家から追い出されることもない。従って炭鉱町の消費は活発であった。・

 

昭和30年代には夕張市には映画館だけで16館もあった。また5階建の百貨店もあった(自称ではなく、百貨店協会加盟の正式の店)。白黒の写真を見ると通り沿いには店が建ち並び、隙間なく人が溢れている。坑道毎に市街地が形成され、そこには商店街があった。

 

 平均年収が2倍の人が集まり、ぱっと使うから大変な賑わいだったわけだが、閉山が進むと町の衰退も急激だった。