「ゆうは将来、医者にならないのか?」
総合病院を営む叔父に小学生の時に言われた言葉です。
忘れもしない、小学2年生の夏に言われました。
小学2年生の春に大きな交通事故にあい、足首に砂利が入り込んだ骨を削るなどの手術を叔父の病院で受けたのですが、術後の経緯や手当てなどに猛烈に興味を持ってマジマジと眺めているような変な子でした。笑
その時、何か感化されたんでしょうね。
私は退院後も身体の仕組みに関する本を毎日のように読んでいました。
それを聞いた叔父が新しい本を持って
私を訪ねてくれた時に冒頭の言葉を言ったのです。
そもそも、うちは親戚みんな医療系。
叔父は総合病院の開業医
叔父は慈恵医大の外科医
伯父は皮膚科開業医
伯父は歯科開業医3人
伯父は整骨院開院2人
うち、教授は1人。
助手2人。
医学生1人。
我が家に伝わる家系図をみると、
大叔父は東京大学医学部の教授・第4代目の日本真菌学会長をしながら、ドイツのパウエル・エールリッヒ賞という医学賞を獲った生物細菌学の研究者でした。
医学界のノーベル賞みたいなものです。
ちなみにおじいちゃんの名前言っちゃいます。秋葉朝一朗です。
ネットで検索するとこんな風に出てきます。
抗生物質の欠点である薬剤体制が菌から菌へと伝播するのは、最近独特の核外遺伝子によることを発見し、その功績により昭和55(1980)年に西ドイツのパウル・エールリッヒ賞を受賞した医学者で、下山事件において細菌学の立場からしご経過時間の測定について、死後轢断説を補強する学説を唱えた。
終戦直後の社会的混乱の中で日本は多発する細菌性赤痢に苦しめられた。その頃サルファ剤が導入されて赤痢対策に大きな威力を発揮した。ところがサルファ剤は数年の内に殆どの赤痢菌に効かなくなり、赤痢治療剤の王座から滑り落ちた。
続いて新たに発見されたストレプトマイシン、クロラムフェニコール、テトラサイクリンが導入され大きな効果が上げたが、これ等の抗菌剤に対しても赤痢菌はすぐに耐性を持った。
しかも多くはこれ等抗菌剤の全てに耐性が有るという厄介なものであり、新しい抗菌剤が登場しても、次々に耐性が付け加わり益々多剤耐性化していったのだ。幸いに日本社会の再建が進み、感染源を絶つ事によって60年半ばから赤痢の発生は減少していった。
その頃耐性菌は突然変異によって耐性を得た者が生き残って広がると考えられていた。東大医学部教授だった故秋葉朝一郎氏は多剤耐性菌出現の仕組みについて独創的な仮説を提示した。それは多剤耐性菌というのは突然変異と選択の繰り返しによって1つずつ耐性を獲得していくのでは無く、何かの作用で多数の抗菌剤が効かない菌が一度に誕生するという物だった。当時の学会の常識からすれば突飛としか言い様の無い仮説だったが、その根拠になったのは、疫学や微生物遺伝学の常識では説明出来ない不思議な現象が起きていたからだ。
抗菌剤が効く菌で始まった流行で、感染源が同じなのにやがて4剤に対して耐性のある菌の患者が発生した。また患者に1つの抗菌剤を与えただけなのに一挙に4剤耐性菌を排出する様になった。分離された耐性赤痢菌は4剤耐性菌が圧倒的に多く、1-3剤に対する耐性菌は少なかった。抗菌剤1つ1つに対して順次耐性を得ていくのならば、1-3剤耐性菌の方が4剤耐性菌よりも圧倒的に多くなければ説明がつかない。
秋葉教授らは、腸管内にいる多剤耐性大腸菌の影響で赤痢菌が一挙に多剤耐性を得るのではないかと考え、多剤耐性大腸菌と赤痢菌を混合培養した結果、多剤耐性赤痢菌を得る事に成功した。同じ頃名古屋東市民病院の故落合国太郎病院長も独立に同じ結論に達していた。
この発見に続いて日本で多剤耐性の研究が急速に進展し、日本の研究者が世界の最先端を独走。不思議な現象を起こす「犯人」は後に「Rプラスミド」と呼ばれる、菌と菌との接合によって伝達される遺伝因子である事が明らかになった。やがて半信半疑で傍観していた欧米の研究者も参加して、国際的にも最もホットな研究領域の1つになった。その結果、多くの菌でプラスミドの伝達によって耐性が広がる事が分かり、耐性菌問題は益々その重要性を増して来ている。
更に、この発見はプラスミドやファージ(細菌ウイルス)を使って外来遺伝子を細菌に導入する遺伝子組み換え技術の確立にも貢献。バイオテクノロジー時代の幕を開ける契機の1つとなった。
結局、私は頭が足りずに医療の道へは進みませんでしたが、ずっと心の中には思うものがあります。
それが何なのかという答えはまだ出ていません。
商売人の血と医療人の血。
どっちも混在しているという感覚はあります。
こんな事を書きましたが私の道はまだ不鮮明です。
今は、全く別ジャンルの仕事をしているもの。。。