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 91年6月3日午後4時8分、雲仙・普賢岳の大火砕流が発生、43人の犠牲者を出した。そのうち報道関係者16人、チャーターされたタクシーの運転手4人が、報道陣の撮影ポイントだった「定点」(島原市上木場地区)で火砕流にのみ込まれた。毎日新聞もカメラマンの石津勉(33)▽制作技術部の笠井敏明(41)▽車両係の斉藤欣行(35)=年齢はいずれも当時=を失った。あの日、3人の同僚を亡くした記者たちは前線本部で、現場で、何を思ったか。20年を前に、4人に聞いた。(敬称略)
 ◇「新幹線」想定できず--橋場義之(63)
 「6・3」当日、毎日新聞の朝刊に「火砕流時速200キロ」の特ダネを載せた。普賢岳の斜面にできた「回廊」を火砕流が下ると新幹線並みのスピードが出るという学者の分析だった。記者の記事にデスクの私が「新幹線並み」を書き加えて出稿した。実際に火砕流が猛スピードで下ると、どんなことが想定できるか。イメージせずに放置して、取材態勢を見直さなかった。そこは忸怩(じくじ)たるものがある。
 <4月に東京社会部から西部本社へ。5月下旬、現地デスクとして前線本部に入った>
 同僚3人が行方不明になり、前線本部からカメラマンの一人がバイクで捜しに行くのを引き留められなかった。2次災害の恐れもあったのに。見つけられず泣く彼に「見たことを記事に書け」と命じた。
 避難勧告区域に入っての取材は批判を受けた。だが、一般市民のルールの中では報道の使命が果たせない時もある。このことを社会全体として理解してもらうことが大事だ。
 結果として、自分の安全は自分で守るという自己完結の取材ができず、周りも巻き込んだ。しかし、フランスの学者でさえ危険を予測できず犠牲になった。今でも事故は防げなかったと思う。
 自然災害など取材陣の安全も問題となるようなケースでは、学者・関係者がメディアと話し合う場が必要ではないか。
 ◇当時入社21年目のデスク。東京地方部デスク、メディア面編集長。02年から上智大文学部新聞学科教授。
 ◇取材では臆病に--堀信一郎(53)
 大火砕流の前に、日本中から火山学者が島原に集まっていた。私は火山学者の人脈ものを連載していたので、彼らについて回った。5月24日に初めて起きた火砕流について、ある学者は「どーっと降りてきて町村を焼き尽くすのが火砕流。あれが火砕流かねえ」と言う。もう1人は「火砕流とか熱雲とか呼んで、人心に乱れを起こしたくない。岩屑流(がんせつりゅう)と呼ぼうかと思った」と言う。分からなくなった。「怖い怖い」と書くのはいかがなものか、と。別の学者とは火砕流の跡を歩いた。その学者も怖さを知らなかったんだろう。自分の安全の基準を学者に置いたのは間違ってないと思うが、フランスの学者も火砕流で亡くなったし、学者もいろいろ。最後は個人で判断するしかない。
 <記者の取材を記事にまとめてデスクに渡すアンカー役だった。前線本部で仮眠中に大火砕流が起きた>
 毎日、定点にいるカメラマンたちに昼の弁当を届け、普賢岳を見ていた。その日は疲れて行かなかった。石津とはヘリコプター取材でコンビを組んだ仲。無線で石津に「行けません」「ああそうですか」と交信したのが別れになった。
 記録すべきことを記録するには危険も冒す。それが記者だが「普賢岳」以来臆病になった。アジアの取材で銃を突き付けられ、拘束されそうになっても無理はしなかった。それで良かったと思う。
 ◇当時入社10年目の小倉報道部記者。外信部デスク、ソウル支局長、中国総局長。10年4月から山口支局長。
 ◇なぜ生き残ったか--宮本勝行(50)
 あの災害でなぜ私が生き残ったか分からない。斉藤さんや笠井さんより定点に行った回数は多かったのに。
 <定点まで3キロのガソリンスタンドで、車のウオッシャー液を補充していた。車の無線が騒ぎ出し、同僚の遭難を知った>
 あの日の朝、先輩記者の「火砕流時速200キロ」の特ダネが載った。でも、速度に実感がなく、熱風を伴うことも頭に入れてなかった。火砕流は高台に逃げれば避けられる、と。いいかげんな肌感覚で。雨による土石流を警戒していたこともあった。他の記者から官庁の話で、今に溶岩ドームが落ちて大規模な火砕流が起きると聞いた。みんなで共有した情報ではなかった。
 今思うのは、ささいな情報でも共有し、危険に備える意識を徹底することだ。災害を取材する後輩たちには「情報を知らないと、命を失うかもしれないぞ」と言っている。取材デスクの他に、危機管理に専念するデスクも必要だと思っている。
 「6・3」の前、避難勧告区域の民家で報道関係者による盗電騒ぎがあり、消防団と報道陣の間が険悪になった。同じ中学で同学年だったNHKの大田好男さんも火砕流の犠牲になり、大田さんのお父さん(故人)と消防団員の遺族を訪問した。遺族の一人は応対してくれたが、お父さんの目を見ることはなかった。遺族のネットワークを作るのは困難、と感じたお父さんの寂しそうな姿を覚えている。
 ◇当時入社7年目の福岡総局記者。諫早駐在、東京地方部デスク、大分支局長。11年5月から西部代表室次長。
 ◇教訓今に生かす--神戸金史(44)
 <新人記者として島原へ応援に行く途中だった。翌年からの島原勤務も含め4年間、普賢岳災害を取材した>
 立ち寄った愛野町(現雲仙市)のうどん店で「火砕流で行方不明者」のテレビニュースを見て飛び出した。20時前に前線本部に着くと「うちの3人を捜せ」と指示され、警察署や消防署を回った。
 後で取材すると、行政も専門家も「6・3」の前までは、火砕流の危険性をセーブして発表していた。「パニックになるのを恐れた」と言う官庁の人もいた。ただ、危険性を強調していれば犠牲を防げたかというと、それは難しい。
 「雲仙の教訓」は独り歩きする。00年の有珠山噴火で、国が「火口から半径3キロ以内は飛行禁止」と規制。メディアは「雲仙の教訓だから」と従った。権力の制約に従うのは教訓ではない。自らの判断で報道するかどうか決めるのが本当だ。
 記者は、現場に行けない人たちの目となり耳となり「大事なのはこれ」と示す仕事。危険な現場ではどうするかを考えてきた。
 テレビの報道部長になって災害取材時の基本原則を掲げている。「すごいスクープも命に優先しない」と。危険を感じて引き返しても責任は問わない▽「他社がいるから」は安全を保障しない、とも。そして指揮命令系統をきちんとして、デスク以外に安全管理者を置く。これは新燃岳噴火や東日本大震災の取材で生きている。
 ◇長崎支局を振り出しに島原支局、福岡総局、東京社会部。05年にRKB毎日放送へ。09年6月から報道部長。
 ◇苦境続く観光業界 島原中心商店街、空き店舗目立つ
 島原半島の人口は災害前の90年から95年にかけて大きく減少、以降10年まで減少傾向にある。農業生産額は微減傾向で、災害前、半島農業の中心だった葉タバコ生産は軒並み減少。アスパラ、ニラなどハウス栽培にとって代わられた。年間商品販売額は郊外型の大型店舗の進出で大きく増加しているが、島原市の中心商店街は依然、空き店舗が目立つ。
 09年の世界ジオパーク認定などを受け、観光客増加を目指した島原半島。自動車での日帰り観光は増加し、半島を訪れる観光客数は横ばいだが、宿泊する人は災害前の半分になった。全国的に知られた「島原観光ホテル小涌園」が今月末に閉鎖されるなど、観光業界の苦境は続いている。




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