遠流(おんる)の島 | 徳富 均のブログ

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自分が書いた小説(三部作)や様々に感じた事などを書いてゆきたいと思います。

 元禄2年(1689)7月、『おくのほそ道』の旅を半ば終えた46歳の松尾芭蕉は、出雲崎の海岸に立ち、「波の音 いとどかなしく聞こえ侍るに」と感慨を深くし、その思いを一句に託した。

「荒海や 佐渡によこたふ 天河(あまのがわ)」

 芭蕉が聞いた波音の先には、奈良時代の神亀元年(724)に「遠流の島(おんるのしま)」と定められた佐渡が横たわっている。順徳上皇がこの島に流されたのは、承久3年(1221)の夏であった。11年前に即位したが、父の後鳥羽上皇と共に鎌倉幕府打倒の兵を挙げたが、敗北した。25歳の上皇に従ったのは、女房らわずか3人だったと伝えられる。

 そのおよそ50年後の文永8年(1271)には、「蒙古襲来」などを幕府に訴えていた日蓮が佐渡の送られた。そして、能の大成者世阿弥は、室町幕府6代将軍足利義教の怒りに触れ、永享6年(1434)、72歳で佐渡流罪となる。

 現在の金井町に「黒木御所」を営んだ順徳上皇は、21年後の仁治3年(1242)、周囲をイチョウや松に囲まれたこの地で46歳にして没した。村人は、上皇を丁重に火葬に付し、真野に塚を築いて「真野御陵」と呼んだ。後に、御所跡を見た世阿弥は、「思ひやられていたはしや」と、上皇の不遇を哀れんだ。

 越後から約40㎞を隔てる日本海上の島佐渡は、8世紀には「遠流の島」であった、後には、「金山」として江戸時代初期には、全国から5万人が金山(かなやま)に群がったという。人間の悲しみと欲望を見てきた佐渡島。これは、佐渡だけでなく、全国至る所に見られる光景で、権力争いや、金銭への欲望は現代、いや、将来もずっと続くのでしょう。