親しい友達は知っている人が多いけど、私はあまり「私、メンヘルなの!傷つきやすいから優しくしてね!」というオーラが無いので、宗教の方でも、自分のやれることをやれるだけやっていても「もー、○○さんってもっと精進しないとこの世があるうちにバプテスマ受けられないんじゃないの?本当に怠け症ね!」とか、言われても、はい、そうですね、とか、適当に答えて、あんまり真に受けてないっていうか、まあ、あとで「ごめんなさい!○○さんが虐待児だったなんて知らなかったの!」とか泣いて詫びに来た時にだけ、あえて実は私はこういう病気でっていうのを話すようにしているので、もうこの宗教に入って15年くらいになるのだけれど、まだ、私が病気だということを知らない人は多い。

長老兄弟たちは一応みんな知っている、というか、長老になると私の病気のコトを知らされて、今までの私の言動を見て「( ゚д゚)ハッ!あれが彼女の精一杯なんだ!」と、納得するらしいけど、特別扱いされたい訳ではないので、私がニトロを持って歩くほど心臓がアレだったり、解離性同一性障害で言うことが首尾一貫していないのを「ただの躁うつ病の変わり者」という色を付けて見ていたり、結構するのですよ。まあ、そういう兄弟姉妹が私のコトを長老兄弟たちに文句をつけに行ってそこで初めて私が幼い頃からありとあらゆる虐待を経験して耐えてきたサバイバーだと教えられるみたいな。

まあ、ゼロ歳児の頃から、紙一重で生きてる感はありますね。

誰に何をされたかなんて話しはじめたら一日終わっちゃいますし(笑)

兎に角、父親、母親、姉二人、小学校の担任、中一の頃の担任、それぞれの学年のクラスメイト、と、味方が居なくて、けれど、「自殺なんかしても敵が喜ぶだけだ!」という、脳内スローガンを掲げて、「大丈夫、小学校を卒業したら楽になる。」「大丈夫、中学校を出たら今の担任ともクラスメイトともお別れだ。」と、自分で自分を励ましながら中の人たちがひたすら耐えて私をずっと保護してくれて、私は初めて外の世界の空気を吸ったのは23歳になってからでした。

 

詳しい虐待内容は、書くと閲覧者の方が吐くかもなので書かないですが、今でも夢で見て、ひとりでトイレでリバースしてたりするくらいきつくはありましたね。軽いところで牛乳ビン(当時は牛乳はガラス瓶だった。)に牛乳が入っているのに雑巾汁を入れられて、担任に助けを求めたら「アンタが食べるの遅いからやられるのよ。それくらい全部飲みなさい。」と、言われて泣く泣く飲んだり。昼食が終わっても、昼休みが終わっても、掃除の時間が終わっても食べ切れない私のスープに、教室からでたゴミを入れられ、担任はやっぱり「それくらいなんなの?早く食べちゃいなさい!」だったなぁ。

体育が終わったらクラスメイト皆で体操マットでスマキにされて、頭と足を逆にされたまま放置されたり、まあ、これ以上書くと身元バレするかもなので書きませんが、そういうのが日常だったので、「これは耐えられないな…。」と、仕方が無く五感のスイッチを切ると替わりの人が「匿名希望。」を演じてくれるので、自分の中にもう何人か居るなぁ…と思うと、自分は独りではないというそれがレゾンデートルになって、高校卒業したら、大人になって稼ぎまくろう!という、将来の静かな人生を夢見るようになり、まあ、穏やかな人生では決してなかったけれど、この歳になって、早くに人生ドロップアウトして、隠居生活をするようになってからも、決して何もなかったわけではないのだけれど、それなりに静かな人生を送れるようになりました。

もう少し体力や気力が戻ってパートタイムでもはたらけるようになったら、と、色々中の人たちと考えるのが生きがいになりつつあります。

中の人もちょっとずつ増えたり減ったりしながら、でも、昔と比べると格段に平和な人格が残って、今は5人で一つの体をシェアしつつ暮らしています。

 

本当に、静かな静かな毎日。

神様、どうか、死ぬまでゆったりした気持ちで余生を送れますように。

今の幸せを壊す人が現れませんように。