第四章 1990年~1996年 

   (社長業駆け出し時代)

 

   (44)激動の4年間 ①

 

第四章として

「社長業駆け出し時代」を

振り返っているが、

就任4年目からの4年間

1993年~1996年

(平成5年~8年)は、

公私ともに重大な難問が

次から次へと

襲い掛かってきた。

 

同族会社の社長業は、

プライベートの出来事も

会社や仕事に連動することが多く、

切り離して考えることは

できない。

 

この連続して勃発した出来事に

立ち向かった37歳から

40歳までの4年間は、

私の人生で最も艱難辛苦の

時代だった。

ただ、それが若い時で良かった。

いや、人生経験の浅い若い時

だっただけに辛かった?

いづれにしても

「若いうちの苦労は

    買ってでもしろ」

そんなことわざがあるが、

その通りだと思う。

 

これから「激動の4年間」と題し、

3回にわたって書き残したい。

プライベートな面が混同することを

ご了承願いたい。

 

3年前に社長を退き

会長に就任した父は、

その後20年以上患う糖尿病から

肝硬変、更に腎臓に至っては

いつ透析になってもという

状態が続き、

病種により異なる3つの病院で

入退院を繰り返していた。

 

1993年9月4日(土)。

肝臓で通院する東大病院から

「今後の生活指導があるので、

 奥さん(母)と息子さんも

 一緒に来ていただきたい。」

母のところへ

主治医から連絡が入り、

私たちは病院へ向かった。

 

受付で呼ばれ診察室へ…。

 

父のレントゲン写真を

見ながら主治医は…。

「 ご主人ですが、

  実は肝臓癌で

  この大きさからして

  残念ながら余命3年くらい

  かと思います。」

 

この時の主治医とのやり取りは

29年経過した今でも

鮮明に私の脳裏に残っている。

更に主治医は、

医者が言う余命年数は

経験上、当たらずとも

遠からずだということ。

(実際に2年9ケ月だった)

自分も父親を癌で亡くしている

ことから、余命は好きなことを

させてあげてほしい…。

ご自分の経験を思い出したのか、

この医師は涙目で訴えて来た。

 

随分と人情味ある医者だと

思いつつも

私は頭の中が真っ白になった。

 

帰路、私の運転する車中で

母とした会話は、

父の性格からして

本人の耳には絶対に

入れてはならないという事で

一致。

その為に身内にも徹底的に

伏せようと。

主治医が言う本人が望む事を

それとなく母が聞き出し、

その実現のために尽力しよう

という事だった。

 

更に私としては会社の事が…。

 

残された3年間に、

父が知っていて

私が知らない事の無いよう

それとなく聞き出さなくては

ならない。

又、懸念される事は、

銀行や仕入れ先の

トキワに対する信用問題。

 

「会長(父)がいなくても

 あの会社は問題ない。」

そのような安心感を

一日も早く、

与えなくてはならない。

 

この2つを…。

 

私がトキワへ入社してからは、

同じ会社で働いたことから

親子というよりも男と男。

叔父の問題もあって、

父とはあまりしっくりとは

いっていなかった。

 

社長引き継ぎの際の

ドタバタ劇では

恨んだことさえ多々あったが、

今ここに父の余命を聞くと

そのような苦い思い出は

頭から離れ、

子供の頃一緒に遊んでくれたこと、

私がすることへの協力、

父の影響から身に付いた趣味の数々、

海外留学させてくれた学生時代など

社会人になる前の出来事や

結婚後は、

孫である私の3人の子供たちを

分け隔てなく

かわいがってくれたこと、

そして嫁の事など

父の口から一度たりとも

愚痴を聞いたことはなかった。

 

そんな良い思い出ばかりが

走馬灯のように感謝と共に

頭の中を次々に駆け巡った。

 

これから母が聞き出す父の願い。

いかなる事であっても

必ず叶えなくてはと、

自分自身に誓った。

 

それから3週間ほど経過したある日。

私は母に呼ばれ

「 時間はかかったけど、

  やっと本音が聞けたわよ。

  あなたが建てた家に

  入りたいって。」

 

現在、

父と私は同じ敷地内に建つ

それぞれの家で暮らしており、

その2つの家を壊して

同居の家を1軒、

私に建ててほしいということだ。

余談であるが、

父という人は

「 大工さんの金づちの音を

  いつも聞いていたい。」

そんな事を言っていた人で、

これまで自宅はもちろん

会社や社宅、倉庫、アパートに別荘と

何ヵ所もの建物の新築、改修を

繰り返し、その頻度は半端ない。

それは趣味と言っても

過言ではなかった。

 

既に自分の年齢と体力からして、

今度は息子が…。

そのように思ったかどうか?

定かではないが、

いづれにしても前述のように

何としてもその父の願望を

叶えなくてはと、

私は心した。

 

時間もそうは無い…。

 

私が資金を調達する家と言っても

父も母も自分たちの構想第一

ということは、

性格上、私も察していた(苦笑)

まずそれを聞かない事には

何も始まらないと思った。

 

10月3日(日)。

父は暫く顔を出していない田舎と

道中の墓参りにも

一緒に行ってほしいと言う。

私は車中で

その話題が出ることを想像し、

父が切り出すのを待った。

 

案の定、父の方から

「同居の家を建てないか?」

という会話になり、

早速父の友人の設計士に

図面の依頼をする事になった。

そして自宅へ戻ったその晩、

創業者・祖父の生家の田舎から

いただいて来たお米や野菜を、

久しぶりに母屋(父の家)で

2家族7人で一緒に食した。

 

明日からは

その翌日に京都で開催される

取引先のゴルフコンペの

参加を兼ねて、

出張に出る事になっていた。

 

10月4日(月)。

東京を発ち、

まず京都の取引先へ訪問。

その後、

かつて入ったことのある店で

夕食を取りホテルへ。

酔いも手伝い

直ぐに眠りについた。

 

夜 中…。

 

ホテルのフロントから電話で

外線が入っているとのこと。

電話の主は家内だった。

 

「 驚かないでね!

  お母様が倒れたの!

  取り敢えず心配はないから

  明日朝、東京へ戻って来て。」

 

後から聞くに、

私が夜中に京都から

タクシーを飛ばして

戻って来ないようにと

気を使って言ったことで、

母は、

「くも膜下出血」で倒れ、

救急車で病院へ運ばれたものの

激症で、意識はないまま、

助かる見込みは既にその時点で

なかったという。

 

前日には食事を一緒にしたばかり…。

ただただ信じられなかった。

 

結局、人工呼吸器により

いわば「生かしている状態」を

保ってはいたが、

父と兄と相談して

4日後にその呼吸器を外してもらった。

 

1993年(平成5年)

10月8日(金)13時08分

母逝去。

行年66歳。

 

医者から父の余命宣告を受け、

その事を2人だけで共有してきた

母が…。

わずか1ケ月後にまさかの急死。

 

3年後には父も…。

そう考えると、

私は途方にくれた。

 

(つづく)