自然を見渡したとき、左右対称でもない水平でもない、その不安定な自由さが自然なのだと。

人工で造られたものは整備されてとても過ごしやすいが、そうでない場所に人が立ったときに不安を感じる。

便利になればなるほどに、人の自然さは遠くなり、身体さえも、こうでなくてはならないという整備される。

今を生きるために環境を人間に合わせるのは仕方ないことだが、それでも自然という、もとは尊敬する対象であったはずの自然を忘れてはならない。

我々の身体も山に入れば疲れることではなく、山と一つになり、畏怖の念をもち過ごしてきたのだ。
それで元気に暮らしていた。

今この身体というものを感じたとき、自然とは別ものになって、人さえも左右対称でなくてはならないみたいな非自然体になっている。
左右対称でなくともよい、
手の長さ足の長さもそんな完璧でなくてよい、もっと自然に身体を捉えたならば、多少の非対称のほうが力が出るし、造られた完璧なロボットのような身体が果たしてどうなのか、、。

もちろん不調が出るほどの歪みは整えなければならない、だが、それとて、ほんらい自然に身体は回復して程よいバランスになるはず、だが、この自然のバランスを否定してきたことで、本来の在り方が変わってきたのだと思う。

左右対称
中心
それを否定してるわけではない。
それがなければ建造物やさまざまな社会生活が成り立たないのだから。、

ただ本来対応できるはずの身体が
平らなところではうまく動くが、
凸凹道は歩けなくなってきている身体に関わりの違和感を感じてるだけ。