農園の仕事が終わった。
それも農園主の廃業という形で。

昨年から6月末までの労働契約も無事勤め上げた満足感が私にはある。
あまりに慣れない作業の連続で何度くじけそうになったことか。
モラハラ、先輩のいじめ、サービス労働など初めての経験が多かった。
でも、よき同僚達に囲まれて1日が短く感じられた。

そして、働ける喜びがある。
病気で入院して手術し、癌で退院後も治療が必要な人がいる。
高額な最新医療を受けるくらい裕福な生活をしてきたが、
健康が当たり前だなんて今は思えないという。
生きて働けることに感謝しなければと、その人はポツリとこぼした。
このような形でしかこの人は真理を学ぶきっかけがなかったのかも。



しばらく霊的な言葉から遠ざかっていたが、忘れたことはなかった。
頭の隅っこでは、いつもなにがしか思っていた。
さらに客観的に自分を見ていた。

霊的知識は、心を解放してくれるような側面もあるが、ある面では、
自分で自分を縛ってしまうような側面もある。
それは、自分がまだまだ未熟なのでそうしてしまうのだけど、
その縛りを解放するのが、これまた大変なことだ。

「自分が相手にしたことは、いつか自分に返ってくる」という法則が、ある。
それをわかっているから、忍耐と寛容の努力をする。
それによって自分が霊的に進化すると信じて疑わないから、人生は修行の場と
覚悟をする訳だ。


霊的進化をしたいから、耐えるのだけど、霊的知識さえなければ、比較的容易な行為も、
知識を人生に当てはめて生きていこうとしているので、葛藤が生じる。
ところが、私は、知識を正しく人生に活用できていなかった。


感情をコントロールしていると思いながら、実は自分の感情を押し込んでいた。

愛してもいない人と暮らしていくことは、苦しい。
近くにいると心が、ざわざわする。




今回、感情を成長させることが、魂の進化には大事なことだと学んだのだ。

感情をコントロールすることも大事だが、自分の感情を大事にして、発露したいものだ。

『魂の法則』のサイトには、いい言葉がある。
それはこうだ。

愛VS我欲

魂は、幸せになるために愛を必要とする。
愛とは他人のことを自分のことのように感じることのできる能力で、
そうなると、
人が幸せになる手助けをしたいと望む。
愛すことのできる能力も、独自に発達させなければならない能力だ。
愛は、霊的宇宙を調和し躍動させる力で、本当のものと永続的なものは、
愛の基盤にのみ構築できる。
他者を愛したければ、自分を知り、自分を愛すことから学びなさい。
自分自身を愛せない者には、他者を愛すことができない。

自分を知るということは、感情(魂)と思考(頭脳)とを区別できることだ。
エゴは頭脳で生まれ、愛とは両立し得ないので、愛したいと願う者は、
自我を放棄しなくてはならない。
愛の学習とは、我欲からの脱却を学ぶに等しい。
感情と思考に葛藤がある場合には、思考を修正すべきなのだ。
愛は、無条件でなければならない。


 人間関係と「愛の法則」
愛の絆と結婚とは別物で、地上の90%の結婚に真の愛は存在していない。
愛情で結びつく僅かな夫婦も、まだそれぞれの我欲を克服する必要がある。
「愛が結び合わせたものを、我欲が引き離してはなりません」

 「愛の法則」から見た病気
感情を抑圧すると魂が病気になってしまい、魂と緊密に結びついている肉体も、
病気になってしまう。多くの病気が感情的葛藤から生まれている。
「エゴ的感情」を手放して、愛の方向に自己変容しなければならない。




私はやっと気付いた。
自分の感情を押し殺しすぎて素直な感情の表現を放棄していた時期があった。
自分の感情を大事にしていなかった。

いろいろと葛藤していたが、魂の法則には優先順位というものがあるのだな。
勇気を出して行動に移すことができた。

先月の末に、職場の遠足があり、伊勢神宮に参りました。
初めての遠足参加と初めてのお伊勢さんでした。

神社というものにあまり興味のない私ですが、前情報としてどのような神様が
お祭りされているのかとか少し調べました。

伊勢神宮には、太陽を神格化した天照坐皇大御神(天照大御神)を祀る皇大神宮と、
衣食住の守り神である豊受大御神を祀る豊受大神宮の二つの正宮があり、
一般に皇大神宮は内宮(ないくう)、豊受大神宮は外宮(げくう)と呼ばれる。
内宮と外宮は離れているため、観光で内宮のみ参拝の人が多いが、まず外宮を
参拝してから内宮に参拝するのが正しいとされているそうです。

パック旅行でバスで、日帰りでした。
三重県は以外に近いのだなと感じるほど快適で、楽しい遠足でした。
たぶん、社長ご夫婦がキャンセルされて不参加であったので、尚更で
あったのでしょう(笑)
旅費11人分は厚生費として経費になるのでしょうが、今までにないくらい素敵な
旅行であったと先輩方は口を、そろえます。

過去記事にあるようなブラック(笑)会社な面もありますが、違った面から
見ると、人生のいろんな経験がぎっちり詰まっている波のようです。
どのようにサーフィンしていくのか?が腕の見せ所にような気がします。

さて、外宮・内宮と参りましたが、見えない霊界を信じる私ですが、太陽神を神格化した
伊勢神社というものに何かを感じたのか?と問われたらば、
何やら観光地化しているような、お札や掛け軸を買ったりすることに、
なんだかな~的な気持ちがどうしてもぬぐえませんでした。

神社大好き友人によると、伊勢神宮は本物で霊妙な気を感じられるそうです。
私は、霊視力が、からきしなので、植えられている巨大な老木の方が、感じるものが
あったくらいです。

霊界通信に 浅野和三郎氏の『新樹の通信』というものが、あるのですが、
この通信の中で死後に伊勢神宮に参拝するというお話があります。

え?死後になんでお伊勢さん?と思われるでしょうが、地上にあるものは、
死後(幽界)にもあるのです。というよりも、地上が幽界の鏡みたいなものだそうです。

いつも立ち寄らせて頂いてるサイトでこの通信が現在文で読めます。
武本昌三さんの” ともしび ”というサイトです。

http://www.takemoto-shozo.com/

それによると、若くして亡くなられた新樹さんが、指導霊のお爺さんと幽界の伊勢神宮に
参拝した様子が書かれています。


ただ今指導者のお爺さんに頼んで、伊勢神宮に参拝させて貰いました。
道中は全然ヌキで、どこをどう通ったのか、少しもわかりませんが、
とにかく御神苑のような所に出ました。
僕は生前ただの一度も伊勢神宮へお参りしたことがないから、はっきりした比較が
できませんが、とにかく絵に見た地上の伊勢神宮とは、大へんに様子が違っていますね。
あたりはしんしんたる大木の杉の森で、その中に小さい白木のお宮がただ一つ、
ポッンと建っているだけです。僕は何だか勝手が違ったような気がして、
これが果して伊勢神宮かしら? と思っていると、お爺さんはすぐ僕の心を察して、
こう言われました。
 「こちらの世界と、人間の世界とは違うのが当然だ。地上では人間の手が要るので、
いろいろ付属の建物などもできているが、神界にその必要はない。
神さまはちゃんとここに鎮まっておられるのだ……。」
 お爺さんがそう言われた瞬間に、丁度杉木立の茂みの中、お宮のずっと上方に、
ひとりの女神・・・・・・お年はまず二十位に見える、世にも神々しい女神のお姿が、
すーっと拝まれました。この神さまが、日本国をお守りくださる、一番上の神さまかと思うと、
僕は自然に総身が引きしまって、思わずそこへ平伏してしまいました……。
 お爺さんの説明によると、天照大御神様は宇宙の活神さまで、人体に宿られたことはない
お方だそうですね。従ってあのお姿も、仮のお姿だということですが、僕達にはまだ深いことは
さっぱりわかりません……。

    浅野和三郎『新樹の通信』=第二編=〔本文復刻版〕
       潮文社、2010年、pp. 39-40(現代文訳 武本昌三)より



私も死後には宇宙の活神さまの仮のお姿を拝することが、できるでしょうか?
肉体があるがゆえに、見えないものを感じる力は、やはり訓練しないと
いけないものでしょうか?

まだまだこれからぐだぐだの人生勉強ですね。
今日の朝ドラ”マッサン”は涙が溢れた。

夫婦愛が気持ちよく描かれていたから。
霊的な知識だけは豊富な私も、感情は素直に反応する。

マッサン夫婦は死後どうなるのか?

エリーさんはマッサンが亡くなるとお迎えにくるということは
地上で培った夫婦愛により、容易に想像できるのですが、さて二人が、
同じ霊的な発達状態であるのか?

幽界においては、進化レベルに応じて住み分けが出来ているらしいので
どちらか一方が下の段階であったならば、一緒には住めない。
上の段階の人が会いに降りてくると書かれている。

そして、以前から読んだことのある霊会通信によると、私たちには魂の双子
ともいえる存在の相手が、ちゃんと存在するらしい。
地上に生まれて来る前に、また一緒に暮らそうと約束して転生してくる魂たちが
沢山いるらしいのだが、案外とみんな成功していないという(笑)
ひょっとして私にも、そんなお相手が地上に転生しているのかもしれない?

今、地上で独りぼっちだと感じていても、過去世や、幽界においては
ちゃんと双子の魂と会えていて、愛のある関係を育んでいたのかしら?

最近、よく読んでいる霊会通信”愛の法則”には、そこのところが
丁寧に説明されている。


愛の法則から見たパートナーとの関係

*人が不幸に感じる最大の要因の一つが、パートナーとの関係であるように見えます。
相手が見つからないと悩む人もいますし、自分たちの関係が不幸せなために苦しむ人もいます。
パートナーとの関係で、幸せでない人たちがこんなに多いのはどうしてですか?


それは二人の間に、本物のパートナーの愛の感情というものが存在していないからだ。
または、エゴの欠点が愛の感情を抑えつけたり、あるいは、その二つのことが同時に起こるからだ。

*パートナーとの関係では、どうしたら二人が幸せになれるでしょう か?

パートナーとの関係で完全に幸せになるには、二人の内面が完璧に似通っていて、両想いで、
自由な、真の愛の感情が存在している場合に限られる。
しかしこのケースは、君たちの世界ではほとんどお目にかかれない。


*それはなぜでしょうか?

それはパートナーとの関係において、エゴや必要性が勝ってしまっているからだ。
また大半の人が、自分と似た存在をはっきりと認識できるほど愛の能力を発展させて
いないので、その人に対する愛情を自覚して目覚めさせ、そのために闘う勇気を持たない。

*自分と似た存在を認識するというのは、双子の魂のことを指している のですか?

そうだ。もっとも、双子の魂というよりも相似の魂と呼んだ方が正確なのだが。


*それは、どうしてですか?

なぜなら、君たちは双子という言葉から全く同じものを連想しがちで、 双子の魂は
すべてにおいてそっくりの瓜二つだと思ってしまうが、そうではない。
双子の魂、つまり相似の魂は、あえて定義するならば、「霊的な出産」となる同じ創造の時を
共にした存在だ。それらは、愛で結びついていられるように同じ瞬間に誕生した、お互いを
完全に補い合える魂なのだ。だが同時に生まれても、そっくりな魂であるわけではない。


*同じ時に創造されても、そっくり同じとならないのはどうしてですか?

なぜなら、似通った魂といえども同一の自由意志を共有しているわけではないからだ。
どの魂も自分で決断できるため、個々の魂の進化のプロセスが必ず違ってきて、それぞれが
独自の個性を持つこととなる。そうして、全部の面において差異が現れててくる。


*進化のレベルが同じでない、ということですか?

似ていることが多いが、全く同じというのは不可能だ。個々が独自の自由意志を持ち、
異なる体験をしていくからだ。たいていの場合はあまり大きな差はつかないが、一つがもう片方の
魂より進歩が速かったり、 一方がある面で他方より成長していても別の面では反対だったり、
そのようなことが各々の霊的な人格や進化のレベルの違いとなって現れるのだ。
まあ違いがあるとはいえ似ているのだがね。


*それでは、カップルとして結びつく人が双子の魂同士の場合は、パートナーとの関係で、
完璧に幸せになれるのでしょうか?


お互いへの愛情が欠点を克服できるほど進化していれば、完全に幸福になれるだろう。
相似の魂同志だから完璧だということではない。愛する能力があまり発展していなければ、
それぞれのエゴが台頭してきて、 お互いの愛情や相似性が発揮できる障害となってしまう。
そして、本当に幸福になるのを妨げてしまうのだ。


*自分の双子の魂が同時にこの世に生まれ出ていない、ということもあ り得ますか?

そういうこともある。

*それが本当なら、どうしてそういうことが起こり得るのか理解できません。つまり、
同時に転生できない場合は、二つの魂がカップルとして 結びついて幸せになる可能性を
奪ってしまっていることになりません か?

そう言うのは、転生する人生の部分だけを見ているからだ。肉体の命 というものは真の命の
一瞬に過ぎないので、離れ離れでいるのは一時的なのだと思い出しておくれ。
転生して過ごす人生というものは、魂の本当の生の一部に過ぎない。
しかも、進化した魂たちは、転生と転生との 間隔を空けるものなので、
彼らにとっては非常に短い時間なのだ。

*でも、同時に生まれ変わることのない状況を選ぶのはなぜですか?

それが、これらの魂たちが――この場合は相似の魂たちのことだが―
―自分たちの取り組みたい試練や使命に応じて選択したことだからだ。

それでも、まるっきり引き離されているわけではない。転生した魂は、 寝ている間に
霊界に戻り、霊的次元に残った愛する者たちと多少なりとも再会できるからだ。
出会えるのは相似の魂に限られず、同じ時に転生しなかった他の愛する者たちにも会える。
実際には二人がそれぞれ別の次元から協力して、任務を遂行することになるのだ。



*生まれ変わった人は、寝ている間のそのような出会いを覚えているのでしょうか?

大部分の人が自覚してはいないだろう。

*肉体を持たない自分の双子の魂と出会った時のことを覚えていられなければ、
一体何の役に立つのでしょうか?

体験したことを意識して覚えていられなくても、その人の内面は元気づけられるのだ。

*でも、少なくとも転生している者にとっては、そういうふうに生きるのは
フラストレーションになりませんか?

愛する者と暮らした後にその人が死ぬのを見て、物理的な次元に取り残されてしまう人の
ケースと同様、これも難しい試練ではある。だが 我々が話しているケースでは、自分と
相似の魂が別世界にいることに完全に気づくことはないので、大きな苦悩とはならない。

*そのことに気づける人はいるのでしょうか?

敏感な人ならね。意識的にコンタクトすることも可能だろう。

*それなら、その人はもっと苦しむことになりますね?

それはその人の進化レベルと、そのような状況を受容する心の準備がどれほど整って
いるかによる。
それに同時に生まれ変わったとしても、相似の魂同士が永続して一緒にいることはたいそう
難しいのだと知っておく必要がある。知り合うまでに、かなり時間がかかることもある。

また、出会うことができたとしても、断固として愛情を守り抜く勇気がなかったり、
まだエゴの方が優勢であるがために、多くの場合に一緒にいる努力をしないものなのだ。
また、肉体を置き去る時が別々で、時間差があると、一人が霊的世界に戻っても、もう一人が
物質界に残されてしまう。だが、この別離期間の間に、各々が自分の目標を果たすことが
できると、二人の再会は素晴 らしいものとなる。


*霊界に戻った時に、自分の双子の魂がまた生まれ変わってしまったとしたら、
 どうなるのですか?

転生というものはそれほど素早く起こるものではない。再び生まれ変わるまでに、
アストラル次元でかなり長い時間を過ごすものだ。
通常、 物質界に戻る前に、相似の魂と再会して霊的次元で一緒に暮らす時間が あるものだ。

*自分の双子の魂が別の次元にいると自覚すると、物質界でパートナーを作る障害と
 なりますか?

いや、伴侶を失った者が新しい相手と一緒になるのと同じで、霊的な法則には何の違反とも
ならない。
この世に生きる者は、自分の自由意志で決断できるので、パートナーを持つべきかどうか、
自己の人生に関して良いと思うことをしていいのだ。


*別次元に残っている魂は、自分の双子の魂が地上で別の相手と一緒になっても、
 嫉妬しないのでしょうか?

霊的世界では地上にいる時よりもずっと視野が広いので、嫉妬することはない。
霊界の魂も状況を理解していて、相似の魂により幸せになれる決断をしてほしいと願っている。
自分もその人との再会を望んでいるのは、もちろんのことだがね。

*でも、その人はそのパートナーとの関係で幸福になれるのでしょうか?

それは、二人の類似性による。似ていれば、ある程度幸せにはなれる だろう。
だが、満たすことのできない心の領域があることは確かだ。
その人と完全に似通っているのは別の次元にいる相手なので、パートナー との関係で
文句なしに幸せになるのは無理だろう。

*では、両方の愛情をどのように共存させるのでしょうか。言いたいの は、つまり、
霊界のパートナーとこの世でのパートナーとに感じる気持ちをどのように両立させるか、
ということですが。
解決策のないジレン マではないでしょうか?

解決策は、状況を理解することにある。
いずれにせよ、霊界で待っている、あるいは先に霊界に戻ってしまった
霊的なパートナーに対する想いを苦しまないために忘れようとするのは、とんでもない誤ちだ。
感情を否定すると余計に苦しむことになるからだ。
また、地上のパートナーに、相似の魂に対してと同じ想いを抱かなければならないと
思い込むことも、二番目の人に最初の人と同じ気持ちに なれないがために罪悪感を覚えることも間違いだ。
なぜなら、愛の感情 は完全に類似している時に生まれるもので、そうでなければ無理なのだ。
これは誰のせいでもない。
だが確かに、相似の魂との愛を知り、それを体験したことのある大変 進化した魂たちは、
他のどんな関係でも満たされないことを知っているので、別の相手と約束をすることは少なく、
再会の時を待つものだ。それに彼らは能力が高く敏感なので、二人がそれぞれ別々の次元に
暮らしていても、連絡を取り合うことが可能である。



と書かれています。

”愛の感情は完全に類似している時に生まれるもの”

ということなのか!?

地上においては、発達段階によってエゴが入り込み、カップルの関係はドロドロしたものに
なるのも当然のことなのだな。
それでも、人は幸せになりたいと願うものだ。
愛されたいし、また誰かを愛し幸せにしたいと思うのだな。
そのために地球に生まれてくるのだけど、
そう単純には、うまくいかないのだな・・・。
それで、もう1度、もう1度と転生することになるのかもしれない。

知り合いにもう16年間、家庭内別居中の男性がいます。

奥様は、夫の母親を介護施設に、毎朝送り出されるそうです。
同じ敷地内でメールでやり取りして食事も別々なのだそうです。
男性は毎月の生活費を20万円渡して、あとは、自由な生活を
送っているというのです。
外泊しても何も問いただされないということです。
女性とは、そういうものなのか?と尋ねられて、肯定しました。

愛のない関係では、夫が、外泊して何をしていようが、気にならないと
思います。
毎月20万円のお金を頂き、家庭内別居なら、むしろ快適?な生活では
ないのでしょうか?愛や執着がない関係になってしまっているのなら。

そういう関係になる前には、お互いの行き違いが必ずあったと思いますが、
男性側は、それすらもう記憶にないのでしょうか。

人には様々な考え方があり、同居し出すと、その思考や思想の違いに
面食らうと同時に失望が始まるのでしょうか。
愛が覚めるのか、もともとなかったのか?
それとも、女性側にもなにか原因があったのでしょうか?



”愛”について書かれている霊会通信があります。
http://tamashiinohousoku.blogspot.com.es/
魂の法則の第2弾で、ネットで無料で読むことができます。

『 愛の法則』 その17、18ページにはこうあります。



*でも、好きな人のためには犠牲を払いなさい、という意見の人もいますよ。
 自分の幸せよりも愛する人の幸福を優先すべき、ということです が、
 これについてはどう思われますか?


そういうふうに考えてしまうのは間違いだ。
人の幸せというものは、 別の人の犠牲の上に成り立つものではないからだ。

天が幸福になる権利を放棄しなさいと誰かに言ったとしたら、
それは不公平だろう。
すべての霊的な存在は幸せになる資格があるが、
そのことによって他の人の権利が減ってしまってはならない。


そのため、他者のために自分の幸せを諦めることも、自分が恩恵を得るために
他の人に犠牲になってほしいと求めることも、どちらも公正ではない。

幸せになる権利を損ねてしまうものは、愛とは言えずにエゴなのだ。

混乱してしまうのは、君たちが愛という概念を誤って解釈しているからだ。

君たちの愛し方というものは、ほとんどの場合においてエゴまみれなので、
そのため、他の人が幸せになるためには君たち自身の幸福の権利を放棄すべきだと
考えたり、自分たちの幸せのためになら、他の人にそれを断念させる資格が
あると思ってしまう。


だから、真実の愛の感情とエゴが顕現したまがいものとを見分けることができるように、
我々がどのように愛しているのかをよく分析してみることが大事である。

そうすれば、不必要な自己犠牲や断念をしたり、 またそれらを他者に要求したりと
いう勘違いをしなくなる。

*でも、愛する人のためには、時にはある物事を断念することが必要だ、
 というのも正しいのではないでしょうか?

それは、断念という言葉が君たちにとって何を意味するのか、ということによる。

愛のためにエゴを放棄することは善いことである。だが、
愛によって愛を放棄するのには意味がない。

*あなたの言われることがよくわかりません。わかりやすく例を挙げてくださいませんか?

子どもを持とうか考えている夫婦を想像してごらん。
この二人には子どもを持つということが、物的な気紛れを放棄したりレジャーに費やす時間を
断念することに思われる。今後は子どもの扶養にお金がかかるし、 時間も割かれるからだ。
彼らがこの状況を自己犠牲的に感じるのは、愛よりもエゴが勝ってし まっているために、
物の所有や安楽さを重視してしまい、愛情を大事にできないからだ。
だが、自分たちの子どもへの愛によって、気紛れを減らせれば、失うものはエゴであるので、
彼らにとっては良いことになる。
これと全く違うのは、別の男性を愛しているのに、
ある男性との間に 子どもがいるために、その子のために愛してもいない人と我慢して
一緒に暮らして、人生を犠牲にしてしまう女性の場合だ。

このケースが、間違って、
愛によって愛を放棄してしまっているのだ。
なぜなら、自分が 我慢すれば、子どもがもっと幸せでいられると思い込んで
しまっていて、 自分の自由な感情を棄ててしまっているからだ。



この通信に私は、衝撃を受け感動した。
ズバリ私の人生は、
愛によって愛を放棄してしまっているし、
自分の自由な感情を棄ててしまっていたから。

愛してもいない人と辛抱して一緒にいることが、”愛 ”だと
勘違いしていたから。
それも、それが霊的な人類愛であると、傲慢にも信じていたのだ。
言い訳がましく 地上的には
子供の為にとか、生活の為にとか、うだうだとやってきたのだ。



仮面夫婦歴は、もう27年になる。
愛せるようになろうと努力した期間もあったが、
努力する愛なんて あるはずもなくて
そんなことさえ気が付かないでエゴまみれに生きてきた。

別居してそろそろ1年近くなる。
1年ほど前、私をもう自由にしてほしいと
言ったことがある。

その時、夫は
「 もう辛抱できないのか? 」
と言った。

私が辛抱していることに相手も当然気づいていたのだ。


人生をもうこれ以上犠牲にしたくはない。 






何か大きな事件や事故のまえには、その予兆があったり、
いじめ自殺の前には、SOSを必ず出していたりするというが、
私のPCも強制終了しても再起動しなくなったり、何も反応しなくなったりして
予兆は現れていたが、2日前にやっぱり壊れた。
無理もない。
もう10年近くも私と共にいた。

新しいPCもいい相棒になりそうな予感がする。
型遅れではあるが、これで十分です。

さて、アメブロにお世話になっていますが、機能が充実しすぎていて
少し腰がひけています。

初コメントを頂いておりますが、なんか公開できずにいます。
アメンバーとか、承認とか、なんか初めてfacebookを始めたころを
思い出す感じで、”成りすまし”的な印象が、ぬぐいされないでいます。
コメントいただいた方、そこのところをご理解ください。
誤解であったのなら、嬉しいのですが・・・。


春の庭先