元寇時、金沢流北条実時(金沢文庫で有名)の次男、実政が鎮西にくだり、博多湾を視察しました。前回の文永の役での戦いは地上戦となりましたので、次の襲来は蒙古軍を上陸させない方法を考案したということです。
北条実政は大宰府を守る水城の大堤防を見て防塁を考案したのか?それとも湾岸を視察して思いついたのかはわかりません。
歴史に伝えられる日本軍の苦戦~真実は日本軍は強かったという説も強いのです。小説家高橋克彦先生は「防塁がなくても勝てた」というご意見を述べておられます。
 
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高橋克彦先生の記事です。
 
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元寇当時、鎮西に派遣される北条氏は分家の日陰の身分の人が多かったようです。しかし、実際に現場で活躍し、歴史にあまり残らなくても国を救うという善徳を現地の武士団とともにつみました。
 
五代執権北条時頼の弟、時定も派遣され活躍したようです。北条時定は、鎌倉統一戦ともいえる三浦一族との戦いにも参戦し勝利を得ています。鎌倉統一を成就した北条氏は世界最強の大蒙古帝国を迎え撃つ地盤を固めたのです。
 
 
続く