おはようございます。

 

今日も勝手に6時に目が覚めました。

いい習慣が身に付き始めてると思います。

 

今日もいい天気ですね。

窓開けたら涼しい風が入って来て気持ちよかった。

 

昨晩も寝る前に酒を飲んでましたが酒の量は以前より減りました。

寝つきがすこしよくなった気もします。

 

あと、、

自分に縛りを一つ付けました。

17時より前にお酒を飲んじゃダメって。

一時はこのまま母と同じアル中になるんじゃないかと

思いましたが大丈夫そうです。

 

とくに何を書くか決めないで書き始めたのですが書いていて

母親を思い出したので母の話をします。

 

 

 

自分の母は今年の1月に死にました。

 

 

原因はお酒の飲み過ぎ。

 

 

急性アルコール中毒とかではないです。

お酒の飲みすぎで数年前に肝硬変になりました。

それでも飲み続けて肝不全になって死にました。

 

 

 

 

今年の1月の終わりごろの話。

 

その日は前日にゲイバー勤務だったのかプライベートだったのか忘れましたが

前日にかなりお酒を飲んで日中はグロッキー状態で寝込んでました。

 

ベットの中で寝込んでると姉から着信が何通も来ていて何回目かで出ました。

 

内容は母が救急車に運ばれたというものでした。

 

「そうなんだ、もう死ぬの?」と姉に聞いたら

「長くはないけど1年くらい」的なことを言われた気がします。

 

結構生きるじゃん。

 

と思いました。

 

 

冷たい息子だなと思われるかもだけど

前々からヤバいやつでしたが

ここ12年くらいの母はひどいものでした。

 

 

 

自分が高校2年生くらいの時に母が再婚した父に浮気され日々荒れていました。

 

再婚した父が姉と同い年くらいの若い女と浮気して子供を腹ませちゃったらしい。

しかもその女は旦那持ち。

ダブル不倫というやつですね。

 

何かを不信思ったのか金をとろうとしたのか

母が父の財布をあさったら子供のエコー写真が出てきたらしく

それで父の浮気が発覚したと言ってました。

父もひどいですが母も似たようなことをしたんです。

 

今の父と母が出会ったとき

母はシングルマザーで自分含め三人の子供と4人で暮らしていました。

母は生活力のない人だったので祖父の支援で生活していました。

 

父は奥さんと3人の子供がいたらしい。

 

母はその父を奪って自分のものにしたんです。

因果応報って言葉であっているんでしょうか、、

まぁ自分のやったことが帰って来てたんですね。

 

不倫はくそで幸せになれないと言うことです。

 

母が不倫ドラマの昼顔を見て「最低ね」とか言ってた時は笑っちゃったし

ゾッとしました。

「いじめっ子とかってこんな感じでなんだろうなー。自分のしたことなんてわすれてしまうんだ。くそだな」と思いました。

 

浮気されてからは毎晩リビングから2人の怒鳴り声の喧嘩が聞こえてきました。

自分は次の日学校だから早く寝たいのに全然寝れない。

最初の方は仲裁に入っていたけど話し合いになってないし

時間の無駄なのでやめました。

家にいたくなくて友達の家によく泊ってました。

 

高校卒業くらいまでその状態は続きましたが自分が卒業して働き始めるくらいの

頃にはすこし落ち着きはじめて結果的に両親は離婚することはなく

よくわからない関係で続いていました。

 

父は浮気相手の女とは別れて、

腹ませた子供は降ろしたと言っていたけど本当のところはよくわかりません。

 

 

自分も社会人になって両親の仲がやっと落ち着いてきたなーって時に

母がやらかしました。

 

母が働いていたエステサロンで

母が店だかお客さんのお金を盗みました。

それが経営者にばれて問題になりそのお金を返さないといけなくなりました。

因みに盗んだお金はすべて使ってしまったらしい。

 

その話を打ち明けられたときに母から父には内緒にしてほしいと言われました。

言ったところで父には借金が沢山あるから返せないとも言われました。

 

『そんなの知ったこっちゃない自分たちでなんとかしてくれ』とも思いましたが

当時自分は実家に住んでいたので知らんぷりはできませんでした。

 

金を盗んだくせに母は働く気配を見せず

盗んだ金は自分が返していくことになりました。

 

家に入れているお金も含めて月々、母に15万渡し

別の借金が払えないとかでプラスお金を渡すこともありました。

 

何でそこまでしてやったのかというと

自分は中学3年間引きこもりでした。

高校からは社会復帰しようとしましたが

3年間勉強をまともにしてこなかった

自分は普通の高校へ受験を受けて進学するなんてことはできません。

それで父と母は学費の高い金さえ払えば進学できる高校に行かせてくれました。

その恩は感じていたので助けてやろうと思いました。

 

あと、当時自分は昼職と掛け持ちで

ウリセンで働いていたのでなんとかなると思ったからです。

 

 

母は一向に働く気を見せず家で飲んだくれているだけでした。

しまいには払えないのにカードで沢山買い物をして

家族が気づいた時にはとんでもない請求書が届くなんてこともありました。

 

休みなく働いても毎月赤字で貯金は減っていく一方で

そんな生活が続いて自分は心が病みました。

 

身体もしんどくなり疲労とストレスで1週間声が出なくなったり

しまいには盲腸の一歩手前みたいのになってぶっ倒れました。

 

回復した後はもうウリセンをやりたくなくて辞めて昼職一本になりました。

 

けど昼職だけじゃお金が足りない、、

どうしようかと思ってるときにでした。

 

財布を開いたらあったはずの万札が無くなっていました。

 

絶対母だと思い問い詰めたら母でした。

 

もう無理だと思い自分は逃げました。

 

その時付き合っていた彼氏がいたのでその人の家に転がり込んで

そのまま同棲をはじめました。

 

母にはもうお金は一切払わないといい家を出ました。

 

 

姉はすでに結婚をして家を出ていましたが

とうじ二十歳とかの弟を実家に残して逃げるのには負い目を感じましたが

もう無理でした。

 

盗んだお金は父と弟で返したらしいです。

 

 

それからも母は働こうともせずにずっと酒を飲んでいたらしいです。

そして少しして肝硬変を診断されましたがそれでも飲み続けました。

 

働かず自分で使えるお金がない母は弟の財布からお金を盗んだり

タバコが買えず近くに住んでる姉の家に行って

500円貰いに行ったりしてたそうです。

 

甥っ子のゲームカセットを持ち出して売って金に換えたと聞いたときは

何とも言えない気持ちになりました。

 

弟の部屋に忍び込んでゲームカセットを取って売ったりもしていて

自分が久しぶりに実家に帰ると自分が集めていた漫画もだいぶ無くなっていました。

 

 

それから少しして

とうじ同棲していた家で寝ていて起きたら母からLINEが来ていました。

 

 

『あんたゲイなのね気持ち悪い』って。

 

 

自分が思春期に入ってぐらいの頃

母からはよく『あんたは男が好きなの?』とよく聞かれました。

自分はいつも『違うよ』と返事をしましたが理解のありそうな人なら

打ち明けたかもしれません。

けど母はテレビに出ているゲイの人や女装の人を見ると

「気持ち悪い」と普段から言っていました。

そんな人に打ち明けるわけないですよね。

 

 

自分は「だからなに?しね」とだけ返してLINEをブロックしました。

けど「何でわかったんだろう」と思いました。

疑惑はあっても何故確信に至ったのだろう、、と。

 

姉と弟には当時すでにカミングアウトしてましたが2人が言うはずもありません。

姉に聞いたら何でわかったかずぐわかりました。

 

母が自分の当時の部屋を物色している時に

クローゼットの奥深くに自分が封印して存在を忘れていた

男のあそこの形をしたディルドとローションを見つけて

それで確信に至ったらしいです。

 

それからしばらく母とは連絡も取らず実家には帰りませんでしたが

久しぶりに実家へ帰った時に「あの時はごめんね」と謝られました。

 

いろいろありすぎてどのことだろうと思ったけど

とりあえず「あのディルドは貰ったもので、自分は最もでかいほうが好き」

とだけ言っときました。

 

 

 

それからも母は悪行を重ねました。

 

 

そして冒頭に戻ります。

 

今年の1月。

姉から母が入院したとか余命1年とか聞いても何とも思いませんでした。

 

その日はゲイバーへ出勤の日で

出勤したとき店のママに「ついにアル中の母親が運ばれましたー」

なんて軽く話してました。

 

営業も中盤に差し掛かり日付が超えたあたりから

ポッケのスマホがやたら震えてました。

 

嫌な予感がしてスマホを見ると姉と弟からめちゃくちゃ着信が来てました。

店のママに一言言って店を出て姉に電話しました。

姉はすぐに出て泣いている声で「母がたぶんもう死ぬ」と言われました。

スマホの奥からはドラマでしか聞いたことがない

心音機のピコンピコンの激しいやつが聞こえました。

 

今から向かうねと言って電話を切り店のママに「母が危篤らしくて、いまから向かってもいいですかと」言いました。

 

もちろん行って来いと言われ店を出ました。

 

さすがにその時は動揺してました。

 

とりあえず落ち着こうと思い道で煙草を吸い友達に電話をかけました。

何を話したかはよく覚えてないです。

 

煙草を吸い終わり「さぁ向かうか」となりましたがもう電車はありません。

幸い実家は都内から車で1時間くらいで行けるのでタクシーで向かうことにしました。

 

タクシーに乗って行き先を伝えて

それからしばらくは動揺が続き少し涙ぐんだりもしました。

 

しかし行先の病院に近づくにつれて自分は冷静になりました。

タクシーのメーターを見ると金額が3万に近づいてたからです。

 

なんであんな奴のためにこんなに払わなきゃいけないのかとムカつきはじめました。

もしかしたらタクシードライバーの同情を買えば

安くしてくれたり無料にしてくれんじゃね?と思い

「母が危篤なんです、、、」なんて言ったりして

「それはおきのどくに、、」的なこと言われましたが

到着後しっかり請求されてカードで会計を済ませました。

 

病院に着くと母の弟の叔父が病院の外で待っていてくれました。

 

伯父と合流して「まだ生きてる?」と聞くと

苦い顔で「生きてるよ」と返されたので

「とりあえず煙草吸っていい?」と聞いて了承を得て

一服してから母のもとに向かいました。

 

救急病棟の待合室に行くと父と姉と弟がいました。

 

危ないけどまだ生きていて

人工呼吸器をつけたらしいです。

それを聞いたときは「え、、植物で生き続けられてもこまるぞ」と思いました。

数日前に知り合いの医者から人工呼吸器をつけたら死ぬまで外せないからと

きいたからです。

 

けど母は心臓がとても弱っているらしくこのままだと

朝までも生きられないとのことでした。

 

医者から心臓を助ける薬を打つか聞かれたそうですがそれは断ったらしいです。

 

いまはどうか知りませんが当時はまだコロナが落ち着いていなくて

危篤でもずっとは横に入れないらしく皆は待合室にいるとのことでした。

 

意識はないけど面会するか聞かれ「まぁ一応いくかと思い」

家族に看護婦さんに「長男がきたから面会できるか」と聞いてもらい

面会しました。

 

一人で看護婦さんと母のもとに向かうと

母はひどい有様でした。

心臓が弱っているからなのか打ち上げられた魚みたいに

ばくんばくんと呼吸?のたびに胸のほうだけ飛び跳ねてました。

唖然としたのか呆れたのか憐れんだのか何とも言えない感情でした。

 

少しその場にいましたが集中治療室からは追い出されて

また危なくなったら呼ぶので別の待合室にいてくれとのことで

家族でそこに向かっているとすぐに看護婦さんに呼び止められました。

 

もうそろそろヤバいとのことで皆で母のもとに行きました。

 

姉と弟はガン泣きで父と叔父は何とも言えない表情をしてました。

 

自分はというと涙一滴も出ません。

 

医者と看護婦さんもその場にいました。

 

心音機の音がどんどん遅く弱くなっていき

少ししてピーーと音が鳴って看護婦さんがボタンを押して音を止めて

医者が「○時○分ご臨終です」と言いました。

 

が、、

また心音がなりました。

まだ生きてるみたいです。

 

そしてしばらくしてまた止まります。

 

再び死亡確認されましたが

母はまた鼓動をはじめます。

 

それを何回か繰り返しました。

 

姉と弟は最初は泣きじゃくってましたがもう泣き止んでました。

 

医者が「そろそろ、、あっ、、」みたいな感じで失言したりもしてました。

自分は生きるか死ぬかはっきりしてと思いました。

 

この死に待ちみたいな時間最悪だと思いました。

 

なかなか死なないのでいちど医者と看護婦さんがはけました。

 

その後も死んでは生き返ってを繰り返すのですが

心音機がピーーって鳴っても音を消す人がいないので

自分が何回かボタンを押して止めました。

 

そろそろかなって感じで医者達が戻ってくると母はやっとご臨終しました。

 

いちど部屋から皆で出されるときに

姉に「集中治療室を出たとこにいた看護師のお兄さんイケメンだったね」

とか言うくらいには自分は元気で冷静でした。

 

皆で待合室に通されてこの後の流れとかの説明を受けて

しばらく待ってて下さいと言われました。

 

叔父は電話してくるとその場を離れて

家族だけになりました。

姉と弟はもう冷静になっていたので

少し話してとりあえず「タバコ吸いに行かね?」となって弟を置いて

父と姉と三人でタバコを吸いに行きました。

 

父に「保険どれくらい降りるの?」と聞きました。

葬式の費用が心配だったからです。

 

そしたらたぶん300万くらいは降りるとのことで

一安心しました。

 

「じゃあ保険金降りたら今日のタクシー代頂戴ね」と父に言いました。

 

当時昼職を辞めることになっていて

出勤はしないけど有給消化中でまだ席は会社にあったので

上司に「母が他界したのですが会社から何かおりますか?」と

LINEで連絡しました。

 

 

 

通夜と式は10日後とかで自分は3日後とかにはゲイバーとウリセンで

働いていました。

 

そして母が死んだ日から1週間がたちゲイバーの出勤の日、

自分は誕生日を迎えました。

 

 

母は息子の誕生日の1週間前に死にました。

 

 

お店に出勤すると店のママにから営業前に封筒を2枚渡されました。

 

誕生日の祝金と御霊前です。

 

同時に渡されることなんて中々無いですよね。

その日は誕生日というのもあってお客さんがシャンパンを何本か開けてくれて

結構酔いました。

店のオーナーも来てくれて

見送りの時に優しい声をかけてもらい酔ってたのもあって

店の前でオーナーの胸の中で号泣しました。

 

店が閉まりお客さんがまだやってる店に連れて行ってくれて

そこでもめちゃくちゃ号泣しました。

 

 

 

次の日友達とプライベートで飲む約束をしていて

昼前くらいまで飲みました。

友達は最後まで付き合ってくれて朝方ゲイバーで号泣しました。

友達も一緒になって泣いてくれました。

 

冷静になってその時を振り返ると自分はお酒と

母親が死んで可哀想な自分に酔ってたんだと思います。

 

 

 

通夜の日。

 

当初は通夜と式は細々とやろうかなんて話もありましたが

保険金が思ったより降りるとのことでわりと人を呼んで

盛大にやることになりました。

 

母は寺の娘で住職だった祖父は数年前に他界していまの跡取りは叔父です。

式を行うお坊さんも叔父です。

なので叔父がお金が大丈夫なら寺の娘だし式はしっかり行えと言ってきたそうです。

 

 

通夜が始まる前に姉弟で母のところへ行きました。

母が好きだったものと言えば酒とたばこなので数日前に姉と弟が棺に入れたところ

信者さんの目もあるしダメと叔父に止められたらしいです。

なので3人でこっそり見せないところにタバコを入れてあげました。

 

 

通夜が終わると会場が暗くなり棺の前のカーテンが自動で閉まりました。

「なにがはじまるんだ、、」と思っていると

中島みゆきの糸をBGMにスライドショーが始まりました。

 

スライドショーには家族で旅行で行った時の写真など

母がまだ荒れる前の幸せそうな写真がたくさん映し出されました。

 

さすがに泣きました。

 

通夜の後、

親戚でご飯食べるときは葬儀屋さんが母が好きだっ納豆かた焼きそばを用意してくれたりと演出がすごかったです。

事前にいろんな情報を聞かれたり写真を提供するように言われたりしたそうですが

全部サプライズ演出とのことでした。

母にはもったいないなと思いましたが

こういうの好きな人だったので喜んでると思います。

 

因みに部屋にはかた焼きそばで暖められた納豆の匂いが充満してました。

納豆嫌いの人がいたら最悪な空間だったと思います。

 

 

 

次の日。

葬式も終わり親戚で火葬場に向かいました。

叔父の唱えるお経をBGMに母の棺が火葬するところに

入れられる瞬間は少し泣きました。

 

母が焼かれている間皆でご飯を食べて

火葬場の人が焼きあがりましたと言いに来て

皆でお骨を壺に移すところに向かいました。

 

火葬場の人に代表者数名が遺骨の確認を先にしてほしいと言われて

弟と父と3人で向かいました。

 

焼かれた棺と母が火葬室的なとこから出されるとこから見せられました。

取り出された骨は人間の形で並んでました。

弟は見てられなかったみたいでみんなのところに戻りました。

人の形に並んだ母の骨を見て

「なんかパイレーツオブカリビアンみたいだな」と思いました。

 

違う部屋に移ってこれから大きい骨は先に骨壺に移しますと言われました。

けどその前に姉もこの状態を絶対見たいだろうなと思い

「ちょっと待ってください」といい姉を呼びに行きました。

その状態の母を見て姉も「おぉ、、すごいね」と言ってました。

 

弟と親戚が待つ部屋に皆で向かい

お骨を二人一組で箸で掴んで骨壺に移すイベントをやり

それも終えて長い式は終わりました。

 

 

母は虚言癖で盗人でアル中で最悪なやつでした。

けど憎み切れないところもあって

柳楽優弥が子役のころに主演をはった「誰も知らない」って映画の

YOUが演じたお母さんによく似た人でした。

 

母との一番の思い出は子どもの頃に

「ハウルの動く城」の映画に連れて行ってもらった時のことです。

何故かその時の記憶は印象に残ってます。

 

一番感謝していることは自分が中学校不登校の頃に見捨てないでいてくれて

高校まで行かせてもらったことです。

それはホントに感謝してます。

 

 

くそ長くなりましたがこの記事を最後まで全部読んだ人はいるんでしょうか?

読んでくれた方ありがとうございます。

 

内容はいろいろヤバいけど何かプチ小説書いてるみたいで楽しかったです。

 

読んでくれた方がいたら気になるのでなんでもいいので

コメント欲しいです。

 

ありがとうございました。

 

 

 

あとがき。

 

後日、父から式代と借金を全部払って保険金が余ったので

姉弟3人に分配したいと連絡がありました。

いくら貰えるんだと思ったら

 

 

 

母の遺産は20万でした。