本当に進歩しているのだろうか? | tokaiama20のブログ

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 私の子供時代といえば今から60年ほど前、1950~60年代だ。
 私の若者時代といえば、1970~80年代だ。
 私は、ふと思うことがある。それから半世紀を経て、我々の生活は本当に進歩しているのだろうか?
 https://www.youtube.com/watch?v=52XpwRz4yxQ&ab_channel=%E4%B8%8A%E7%94%B0

 私が物心ついたころ、ちょうど小学校に上がった7歳くらいのとき、伊勢湾台風に遭った。
 家は親戚の宮大工が作ってくれたので骨組みは頑丈だったが、屋根はセメント瓦がすべて飛ばされた。塀も吹き倒された。ブルーシートなどない時代だったので、雨が降れば、何十ものバケツや鍋で雨漏りを受けた。
 近所は、まるで海の浅瀬のなかのようだった。倒れた家も多かった。水が引いたのは半月以上経てからだ。

 学校は一ヶ月くらい休みになっていたが、再開後も、校舎は避難民に占領されていた。
 だから児童たちは階段で授業を受けた。
 衣類のない子が多かったので、救援衣類を着ていた。丸坊主の男の子がスカートをはくというミスマッチングも珍しくなかった。
 http://hirukawamura.livedoor.blog/archives/5828613.html

 だが、当時は、まだ戦後十数年しか経っていない時代。人々の価値観は「人情を大切にする」ことだった。全国から救援物資が殺到していた。
 みんな自分も貧しいのに、なけなしの財産から救援をしてくれたのだ。
 今は、能登地震の救援物資も大半が行政機関からのもので、一般市民には「金を出してくれ」という感じだ。当時は、古着が基本だった。

 名古屋が台風被災から立ち上がったなと感じたのは、名古屋中を網羅していた市電が復活してからかもしれない。水没してオシャカになった車も多かったが、全国有数の広い道路は、すぐに賑わいを取り戻した。
 今のように、生活保護とか被災支援金などない時代で、行政は菅義偉のように「自助!」が当然を市民を突き放していた。

 中村区は、戦災未亡人が多かった。また在日が非常に多い街だったので、未亡人女性たちは朝鮮式屋台でドテというホルモンを煮て、酒を売っていた。閉店後は、客と寝て稼ぐ女性が多かった。
 当時は、太閤通り・黄金通は、どこも屋台カーバイドの臭いに満ちていた。

 夜間の屋台群は大門から栄までの幹線道路歩道を埋め尽くすほどだったが、1964年東京オリンピックで外国人が来るからと理由がつけられ、違法営業として片っ端から強制撤去された。
 未亡人女性たちは行き場を失い、仲間と団結して赤提灯を開店する者が少なくなかった。これが名古屋の飲み屋街の歴史である。

 当時の黄金通の太閤通りに近い場所に、731部隊司令官、内藤良一が作った日本ブラッドバンクという会社があった。当時は、売血産業で、朝早くから、血を売りたい浮浪者が周辺をうろつき、頗る治安が悪かった。
 母親も、「あそこだけは通りたくない」と言っていたほどだ。
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%83%96%E3%83%A9%E3%83%83%E3%83%89%E3%83%90%E3%83%B3%E3%82%AF

 今は、ブラッドバンクの後継企業、薬害エイズで知られたミドリ十字社のさらに後継企業である集団検診協会の駐車場になっている。
 この会社は731部隊出身の厚生省医官と結託して、全国の小学生に結核集団強制X線検診を実施していた。

 当時の小学生へのX線集団検診の被曝量は一枚当たり20~30ミリシーベルトもあって、おまけに撮り直しも多かったので、少女たちの乳房に乳ガンイニシエーションを作り出すのに十分だった。
 潜伏期間を経た1960~80年代の乳癌・肺癌の相当部分が、集団X線検診によって作り出された可能性がある。
 http://hirukawamura.livedoor.blog/archives/6081278.html

 当時のライフスタイルを思い出してみると、衣食住のうち、衣類は、名古屋の場合、繊維産業の中心地だったから、とても恵まれていた。地方の半額くらいで衣類が買えたので、不足して困った記憶がない。

 食に関しては、大都市なので流通は多かったが、過疎の農村で味わえるような新鮮な食品は少なかった。唯一、下一色地区から市電に乗ってシジミ売りのおばさんが、毎日新鮮なシジミを安価に届けてくれていて、私も、毎朝の味噌汁といえばシジミが定番だった。
 小さな身の一つ一つ食べないと母親に怒られた。ご飯粒も一粒でも残すと「お百姓さんに申し訳ない」と父親に怒られた。

 貧乏な我が家では、良い魚が買えず、ほとんど臭いのする鰯ばかりだった。あとは、近所の肉屋がサービスで売り出しているコロッケだった。
 これはSL機関士で国労書記長をしていた父親がストライキで逮捕されて二ヶ月も勾留されている間、母親も入院していたので、姉が毎日、コロッケを買って食べさせてくれていた。

 1950年代は、たぶん竈で煮炊きしていたような気がするが、小さかったのでよく覚えていない。それから水道が引かれ、タイル張りの流し台の隣に小さなレンジが置かれたのを記憶している。
 確か灯油圧力式だったような気がする。すぐにガスが引かれたので、あまり長い出番ではなかった。

 なお、1950~60年代、我が家では家族全員に病気が多発した。これは「江戸時代の処刑場の祟りだ」と母親は思っていたようだが、実は、この家を建てるとき、父親が仲間の力を借りて地盤にSL石炭殻を大量に投入したため、これに含まれていたヒ素が問題だったかもしれない。

 電気は、名古屋駅から徒歩15分の我が家は、さすがに戦前から配電があったようだ。
 ただ、私の子供の頃はシリカ裸電球で、やがて蛍光灯が導入された。
 だが、高価なので、十分な明るさを得ることはできなかった。当時は電気代も安くはなかったからだ。

 トイレは、もちろんボットン式汲み取りトイレだった。この悪臭と大量に沸いた蛆は今でも思い出すが、決して良い思い出ではない。
 当時は、まだ屎尿は「金肥」という貴重な肥料だったので、近隣の農家が、わざわざお金を出して引き取りにきた。
 あるとき桶をぶちまけて庭一面が屎尿に覆われたが、当時の百姓さんは真面目で、完全に土で覆ってくれた。

 トイレが水洗に変わったのは、曖昧な記憶だが、下水道が完備した1970年前後だったように思う。
 最初はタイル張りのトイレで和式だったが、あまりの清潔感に驚かされた。名古屋は窯業地帯なので、タイル張りが普及していたのである。
 それから1990年代になって、我が家では洋式に変わり、TOTOの温水便座が導入された。

 これは正真正銘の革命ではなかったかと私は思う。今思えば、あらゆるライフスタイルが、変わったように見えて、実は本質的には変わっていないように思うのだが、トイレだけは当時のボットン式には戻りたくないと思う。
 一生懸命、尻を拭いても、完全にきれいになっていなかった。温水便座の普及者は賞賛されるべきだと思う。日本人の排便環境に巨大な革命を導入してくれたのだ。

 我が家では、私以外は女ばかりだった。父は、寝るときくらいしか家にいなかった。祖母と母親、姉と妹に囲まれた生活で、男気と縁の少ない生活は、私が学校でいじめられる一つの理由になっていたかもしれない。
 女性特有の生理は、いつでも身近にあった。母親は、生理の始末に雑巾のような布を使い、洗って再利用していたようだ。やがて脱脂綿が使われるようになった。
 ボットントイレに捨てても分解されるからだ。
 
 1961年、アンネナプキンという生理用品が販売されるようになり、女性たちのライフスタイルを変えた。
 雑巾に近い布や脱脂綿などの使用が消え、世の女性たちはアンネ一色に染まった。生理という言葉も「アンネ」に変わった。
 これも、温水便座に準ずる革命だったかもしれない。そのまま下水道に流せたのだ。

 車が、最初に我が家にやってきたのも、この頃だ。最初は中古のルノーだったと思うが故障ばかりしていた。それが中古のコロナに変わったころから、車を核にしたライフスタイルに変わっていった。
 それまでは、父親は自転車を漕いでSL機関区まで通勤していた。

 だが、私が交通の歴史を振り返ってみて、自転車や車に関して、150年前の開発時と比べて、どれほど進歩しているのか、大きな疑問がある。
 今でも100年前の大古車が売られているし、半世紀前の車など、実用車として生きている国など珍しくもない。
 アメリカで軽自動車がブームになているが、すべて30年近い前の生産だ。
 エンジンがついて、人間を運んでくれるという本質において、私には「進歩」が実感できないのである。

 まあ、燃費は確実に進歩している。私はスズキアルトに乗っているが、燃費は四駆なのにリットル24Km前後だ。だから、自動車の未来はアルトにあると確信している。
 EVが未来の主役になることは永久にないと考えている。水素車も同じだ。それは、ガソリン車のような耐久性がなからだ。
 だから、EV車に進歩は感じられない。

 EV車が未来の主役であるかのように宣伝されている本当の理由は、温暖化を口実にした原子力発電の推進にあると断定してもいい。
 原発を推進しているのはダボス会議と国連だが、その核心人物であるアルゴアは、世界最大のウラン鉱の所有者だ。そしてビルゲイツは、世界最大の新型原子炉開発者だ。
 だから、世界のエネルギーを電気に一元化して、原発でまかなうという発想の裏側が実に明瞭に透けてみているのである。

 これに踊らされて電気の大量消費社会を作ろうとして、JRはリニア新幹線の工事を進めている。また、自民党は、すべてを電気でコントロールするスーパーシティ(スマートシティ)を作ろうとしている。
 一方で、世界の化石燃料利用を、二酸化炭素を口実に廃止させようとしている。

 人類の煮炊き、暖房をすべて原発電気に変えようというのだ。竈や暖炉、薪ストーブなどもっての他として敵視する社会を作ろうとしている。
 そして、電気オンリー社会で、楽ちん生活をすることが人類の進歩であるかのようなデマで人々を洗脳しようとしている。

 だが私は、原発電気による暖房などいらない。薪ストーブの暖かさから離れるつもりはない。今でも、エアコン暖房は極力使わない。こんなものに進歩は感じられないのだ。
 私は、今でも電気温水器は使いたくない。せいぜい灯油ボイラーを使っている。
 能登半島地震でも、電気一元生活をしていた人は、いまだに停電でひどい目に遭っている。一方で、昔ながらの竈、囲炉裏を使っている人には大きな影響がない。

 竈や囲炉裏での調理には郷愁があるだけでなく、実際に食事の質が違うように思える。高級な電気釜で炊く飯より、竈の羽釜で炊いた飯の方がはるかにうまい。
 囲炉裏で、焼いた焼魚や焼鳥は、電気式調理では、うまさを再現できない。
 電気生活は、どんなに便利ではあっても、私には進歩と思えないのだ。

 そもそも楽ちん生活、歩かないですむとか、重労働しないですむなんてのが、本当に進歩なのか?
 人間の真の健康は、筋肉を働かせて汗をかき、日光を浴びるところから生まれるのではないのか? 人間が体液の循環を失うことは健康を失うことなのだ。
 楽ちん生活への誘いは、人類を滅ぼす目的さえ疑ってしまう。

 温水便座は文句なしに進歩だと思っているのだが、なかには、肛門をきれいにしすぎることで免疫機能の低下を指摘する人もいる。
 低燃費アルト以外の車が進歩しているようには見えない。大半の車が、儒教的な序列と見栄に支配されているようにしか思えない。さらにリニアが進歩だなんてのは、もっての他だ。

 これは新幹線の4倍の電気を浪費し、本当にこれを必要とする人などほとんどいないのだ。結局、沿線の狸や狐を乗車させるつもりなのかと思う。
 リニアは、原発電気社会を演出するために計画された。リニアが全線開通すれば100万キロワット級原発が必要になり、その存在理由を作り出すために計画されたのだ。
 実際には、名古屋品川間は40分しか短縮されないが、大深度の駅に昇降する時間が20分もかかるので、時短効果などリニアには存在しないのだ。

 我々は、人類史を民俗学的視点で振り返り、人間が楽しく、解放されて生きるために、どのような民俗、風俗が適しているのか? 人間に本当に必要なものは何なのか?  明確にビジョンを持つべきだ。
 それは楽ちん生活ではない。人々の主体性を引き出し、人間としての能力を引き出し、健康を確保できるライフスタイルでなければならない。

 毎日歩き、体液を循環させ、日光を浴びることで免疫力を確保し、笑顔の絶えない人間関係を作り出し、大自然とふれあいながら美しい、快適だと感じる感受性を確保できるライフスタイルだと私は思う。
 それは、少なくともAIに依存する社会でないことは確かなのだ。国家権力が作り出した秩序に整然と従うわけでないことは確かだ。

 コンピュータや技術革新が人類の未来を救ってくれるわけではない。
 何が人を救うのか?
 その答えは、歴史を民俗学的視点で振り返る中に見えてくる。