前回の続き。
実際に行った道から逆に遡って記録しています。
貝塚の縄文時代から、産金の歴史の遺跡へ。
偶然これもグーグルマップで見つけたものです。
1回目一人で行った時は気づきませんでした。
黄金橋にカモシカ
のの岳の峠を越えて暗い山道をぐるぐるめぐっていく。
道は狭く、暗い道に向かっていく先は「産金遺跡」
きっと山奥のような日も当たらない洞窟のような所だろう・・・
とイメージしていたのだが、
パッと視界が開け、峠を抜け里の集落へ降りてきた。
満開の八重桜が待っていた。
いい里じゃないの~。
穏やかな空気があります。
地域の人が植えた桜が今は何もない産金の風景を
たった1本で盛り上げていた。
「天平金産地陸奥小田郷」
すごいね~。
「天平」
天が平になる年号をみることなんて、まずないですよ。
『涌谷町誌』のスケッチを、スケッチする二重のスケッチ
ですけど、こんな感じでぼこぼこ掘っていたのですね。
伝わりますかね・・・
今と比べれば、まだ、まし。
ところどころ沼地のようになっていますが。
近くを散歩していたらカモシカがいた。
おしりだけ撮れた。
気づかれて森へ逃げてしまいましたが、
今はのどかな風景が残されていました。
黄金の里に喜ぶ氏族たち
金がとれた喜び。
そんなことが天平時代にあった。
前回の金の話に追記しますと、
平城京で聖武天皇が大仏塗金のための黄金を切望していたのは、
当時、日本国内では金は採れないとされ、
全て輸入に頼っていた為。
まさにその時!
陸奥国守百済王敬福が管内の小田郡で産出した黄金900両を貢上した。
という国産の金という事で、大喜びだったわけです。
それまでの金採掘は、朝鮮式で行っており、大陸への依存が大きかった。
そのため国産の金が産出されたことで、盛大に天皇家に献上され、
奉仕されることになります。
そして、調べてみたらなんとその祝いの舞に参加していたのが
大伴氏で、演奏していた・・・しかも久米舞!
※文化デジタルライブラリー
https://www2.ntj.jac.go.jp/dglib/contents/learn/edc22/naritachi/utamai/u1.htmlaritachi/utamai/u1.html
え!久米氏の?
奈良の東大寺にて金がとれたことを祝う儀式に
参列した人の名に「大伴氏」と「佐伯氏」がありました。
その際、久米舞をして(久米氏の舞)現存する日本最古の歌舞
とされるのですが、雅楽は尾張浄足(おわりのきよたり)説、
その左に大伴氏、右に佐伯氏が別れて舞をしたという。
※『令集解』によると、大伴氏が琴を弾き、佐伯氏が刀を持って舞った。
大伴氏が・・・琴。
服装は五位の位袴で、剣を掃かせ、蜘蛛を斬るなどを演じる。
この蜘蛛というのは「土蜘蛛」のことです。
久米舞の起源は、早い段階から大和王権に服属した
古代の久米一族の風俗歌舞にあるといわれており、
大王への服従の誓約として行われたものであると。
詳細はこちらを。
ということで、金の産出の管理監督をしていた
百済メンバーに佐伯氏と大伴氏がいたことです。
大伴家持が歌を残していますね。
※黄金山神社
「陸奥国より金を出せる詔書を賀く歌」
須売呂岐能(すめろきの)
御代佐可延牟等(みよさかえむと)
阿頭麻奈流(あずまなる)
美知能久夜麻爾(みちのくやまに)
金花佐久(くがねはなさく)
百済朝臣足人(帰化人)は、採金、貢金体制の最高官人でした。
大伴氏、佐伯氏、と共にいた朝廷側の一人に、
大伴氏と同族の「丸子」がいたのです!
なるほど~。
だから石巻に繋がるわけですな。
在地で有力だったとされるのが丸子連宮麻呂という人。
在地の代表者として金の採掘によく働く人だったそうで、
位を授かっている。
しかも、この丸子氏は、僧侶だった!
えー、珍しい・・・
お坊さんなのに、産金に協力したので
「私度沙弥僧尼令」となり法名と師位を受けていた。
これは東大寺の大仏建立に全力を尽くした行基と同じでは?
ひょっとして東北にある多くの行基伝説は、
丸子氏のことだったりして・・・
ということで、この産金のリーダ的存在、
地方へきてよく働いた人の名に、
佐伯氏、大伴氏、丸子氏、百済人(帰化人)が連なっているのです。
佐伯氏と物部氏の金
確か空海の母は佐伯氏で、物部氏系でしたよね!?
ああ、思いだした。
日下部も出てくる金。
やはり、佐伯氏と金華山(牡鹿半島の)は繋がっている。
日下部の遠祖となる人が、浦島太郎だった話し。
過去記事に登場する和邇氏(丸子)がやはり涌谷町で
産金をしていた末裔だったから繋がる。
鬼伝説は、金を採掘していた人を指します。
土蜘蛛を示す伝説は多く、茨城県の茨(いばら)の伝説。
「野の佐伯」といわれた先住民のことなど。
植物との関係があり、葛、蔓といった言葉から
派生している意味は、金鉱脈のある所に育つ植物を
熟知していた民でもあったからです。
例:多治比氏→イタドリの花
それが修験の知識へ受け継がれているのです。
※秋田県の鹿角長者伝説。(大日堂神楽)
金鉱脈の聖地、黄金の仮面にしている。
また、その土蜘蛛は墨虎伝説(福島県飯舘の山津見神社)として残されています。
阿部氏かもしれないが(追いつめた源氏は自ら白狼と言っている)
「あ」の名がつく人々です。
阿蘇、安部、安達、安東、阿多隼人・・・
そして空海の母、阿刀(あと)など。
※山津見神社奥の院 伝:墨虎の隠れ岩(福島県飯舘)
これらの「あ」の氏族らが、どうやら採金に携わってきたようです。
その朝廷側についた言わば「にぎえみし」といわれる者たちは、
以下の人たちと関わってきたと想像。
日下部=海部=物部氏。
佐伯氏=母方は物部氏。
つまり、物部氏。
佐伯氏は、蝦夷とありますが、
wikipediaの関連項目に記されているように、
貴族の腐敗した内乱(藤原不比等から始まる)が多い時代。
※佐伯氏を調べると、上記の関連項目が出てくる。
これらに参戦した佐伯の名が多くある。
(藤原家と対立)
佐伯の名は、このすべての内乱に加担しています。
これにより
敗戦した豪族たちは、東北に逃れ、
「藤原北家」が担当。
→蝦夷討伐のための藤原家として派遣。例:藤原実方と魚名(秦氏)
そして在地のすでにいた金採掘たちと関わり、
朝廷は、元朝廷の軍事力にあった氏族を味方につけ、
在地の豪族には地位をあげさせ「にぎえみし」にしてきたという歴史。
坂上田村麻呂がエミシに物部という名に変えたことも。
遠田君もその一人だった。
物部氏は朝廷と深い関わりをもち、在地の蝦夷と仲介を保っていたから、東北での物部氏は権威があったと思う。
孝謙天皇と光明皇太后が、諸臣に対して、
「大伴・佐伯の一族ははるか昔から
歴代天皇の親衛隊として仕えてきた者ども」
と、言っているのだから。
おまけ-----------------------
もー、いくでしょー。
毎回、濃厚すぎるんだよ。
軽くしたい~~。
「cafe 六十三番屋敷」鹿島台
一人だとこんな贅沢できませんので、
ディープ探訪に付き合ってくれたAさんへのお礼に。
不思議なことにAさんは物部氏と関わりをもっていて、
霊統なんだと思うのですが。
奇岩を偶然発見し、
涌谷町へ行くきっかけになったのは、
いろいろとAさんの動きとシンクロしていた。
その頃から、「偶然」という発見が連続して起こり、
私一人ではこの歴史を知ることがなかったこと。
以前よりも増して、明確なモノを見せてくるようになってきた
物部氏という謎のみえない「もののふ」の存在。
彼らが顕かとなる日はいつなのか。
こうして伝播していき、顕かとなる歴史というのは、
かつて物部氏がやっていた事だったのかもしれない。
まったりやってますけど~
余談-----------------------
ちょうどぴったり正午に探訪が終わり、
帰り道、黄金山神社の前を通りました。
Aさんが「すごい鳥居」と驚いていて、
神社のことは知らないということでしたが
立ち寄る気にはなれず。
そこは「天平ろまん館」がある所だったので、
少し休憩しようとなり駐車したら、
雨が降り出し、戻ってきた時は、どしゃぶりになっていた。
そんなに降ることなかろう・・・な。
あの時に似ている。
岩手県の丹内山神社の帰り道。
それまで雨に降られることなく
探訪できたことが幸いというか、
ずっと何かがたまっていて我慢していたような雨だった。
そして、私のスマホがフリーズした。
なるほど~。と、唸ってみる。
再起動してもへそを曲げている。
そうか~そうか~、と寄りそってみた。
まったくもって・・・
グーグルマップがしばらく使えず。
元に戻ったのは涌谷町をぬけてからだった。
そして、雨は小ぶりになり、いつもの空に戻った。
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次は、もっと深く追及。
墓場です。
最北の装飾古墳!
最初に行った所へ戻ります。
ちなみに、アラハバキの漢字は「荒」ではなく、
元は、「顕」だそうです。
参考に久米舞をのせておきます。