大物忌に対し、小物忌もあるのです。
飛鳥(とびしま)は、新潟県の粟島、
佐渡島とは一直線に結ばれた海の道であり、
古来より交流があったという。
飛島の由来はわかりませんが、UFO目撃多発地域。
UFOが飛ぶ島→飛島としておこう。。。
島の名称の由来には、鳥海山の山頂が噴火によって吹き飛んで島になった
伝説に基づくとする考えもあるが、古地図には海獣の名前を冠した
「トド島」「トンド島」と表記する例もあり、決め難い。
なお、島内に祀られた小物忌神社は、
鳥海山大物忌神社と対をなしている。(wikipedia)
トド=トートの鳥ですね。→鳥取部
こちらは、酒田市にある小物忌神社。
奈良県の二上山との関連はあると思います。
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鳥海山が卵の始祖伝説があるので紹介します。
卵から生まれた山の話
(山形県遊佐町)
むかしむかしの大昔。
ある日のこと、むらさきの美しい雲が西の空いちめんにただよったど。
その雲の中から一羽の大きな鳥が出羽の国に飛んできたんだど。
そしてな、この国の一番高い山の頂きに翼を休めたんだど。
大きな鳥は、山のいただきで三つの卵をだいて、あたため始めたんだど。
どのくらいたったべな。やがて、卵がかえったど。
ありゃありゃ、左の胸に抱かれていた卵は「両所大菩薩」
という二柱の神様が生まれたんだど。
そして、一柱の神様は、この一番高い山「大物忌」の守護神になったんだど。
「大物忌」は、今の鳥海山だな。
もう一柱の神様は、向こう側のなだらかな丸い山の守護神になったんだど。
この山は、今の月山だな。
こうして二つの高い山の神様が生まれたんだど。
右の翼に抱かれていた卵は、
「丸子親王」という貴いくらいのお方が生まれたんだど。
「丸子親王」は、この鳥海山と月山に囲まれた地方をぐんぐん開拓して、
人間の住めるところにしてくださったんだど。
その役目が終わると「丸子親王」は、またもとの大きな鳥の姿に戻って
鳥海山の北の峰にある水をたたえた池に沈んでしまったんだどは。
それから後、この池は「鳥の海」とよばれるようになったんだど。
「丸子親王」を祖先とする「丸子」「丸藤」または「丸頭」と名のる家では、
鳥肉を食べないきまりになっていたんだど。
また、丸の中に二羽の鳥が翼とくちばしを合わせた紋を使っていたんだど。
鳥海山を真向かいにあおぐところに、「丸子」という集落があり、
昔「丸子親王」が開拓したところと伝えられているんだど。
(やまがた伝説考:鳥兎沼宏之より」)
丸子神社が静岡県にあり、月と稲穂です。
そして、ヤタガラス。
二羽のくちばしと鳥が向き合った家紋は、けっこうありますね。
ネットの画像から抜粋。
「鳥の海」の伝説は、亘理町(宮城)にもあり、
秋田の兄弟が干拓した話です。(安倍氏説)
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秦氏と丸子(和邇・和珥など)は同族でしょう。
丸子は、マルコと呼ぶものもありますが、
本来は「ワニコ」です。
豊受大神は、ウカノミタマという事。
小野氏が遠祖となっています。
小野妹子、小野篁、いずれも航海技術者
和邇氏は、太平洋にもきています。
千葉県から石巻周辺へ。→葛西氏。
江戸時代は、千葉県と活発な交流があり、
以前、大島カブのことでも書きましたが食意外に、
伝統芸能も南三陸へも伝わっています。
ところで「紫たなびく雲~」という描写がとても多いです。
紫は、天変地異の色と捉えられますが、
冠位十二階では、最上の色。
なぜ、紫が高貴な色にされたかは、いろいろ理由があります。
以前書いてましたが、紫波は、赤石のことがあります。
元は、斯波(シハ)ですが「波」。
これが、志波彦と関係すると思いますが、
秦氏も「波」の名前を使ってきた。
湯殿山の常世岐姫の石碑=赤染氏(ルーツは息長氏)
赤の染色技術者=フェニキス。
紫の高貴な色=貝紫を出す
→イエス・キリストを描く場合にも使われる。
この貝紫は西洋から。
聖徳太子は、最も高貴な色としたと思います。
王族の色です。
日本では吉野ヶ里遺跡で、
古代布に貝の色素が発見されたそうです。
(貝紫だったかは不明)
といったことは以下に書いてます。参考に。
卵の始祖伝承は、とても深いもので、
かぐや姫にも繋がるのですが、後で考察します。
丸子親王は大伴氏だった
2014年に書いていた記事を読みかえして
そうだった、情報量が多いから忘れますね。
大伴氏は、丸子だった!
丸子氏を調べたら、
①大伴氏
②武蔵江戸氏流
2つがあるという。
紀伊・信濃・大伴糖手の子である
丸子頬垂が初代であり、
大和の和邇(和珥)ワニ氏の事だとする説!
ワニ氏は「丸(マル)」ともいった。
帰化人の西漢氏の支族であり、
こちらが物部氏の祖といわれている。
なので、蜂子皇子がヤタガラスに導かれた話は、
熊野なので、日本海と太平洋には熊野が多くきています。
尾張氏や物部氏と同じ高倉下の末裔という伝承もある。
そーか、ならば、蜂子皇子の母が大伴氏であることは納得。
しかも!
名族秩父氏の流れを汲む武蔵江戸氏の支流の一族。
そーだった。
じゃあ、しつこく調べる秩父人がいても不思議ではない。笑
秩父彦と大伴氏の丸子
実家の隣町の里山に「丸山」があり、
だいだらぼっち(巨人)の話があります。
崇俊天皇を殺害したのは、東漢人ということでした。
西漢氏は河内国(現:大阪)を本拠地としていたので、
河内氏(日本の氏族)は西漢氏の一族。
この河内氏は、武蔵河内氏など信濃、甲斐など含め関東地方を中心に支配していた。
その武蔵河内氏は、武蔵郡児玉郡。
武蔵七党の一つである児玉党であり、
秩父の上野国(現:群馬)を拠点にしていた豪族で産鉄族の一つ。
関東が強い理由。
農民が武士になったから。
その中でも丹党が最も強かったという。
それは、儒学を重んじていたことで?
丹党の中の児玉氏は、宮城県の須岐神社を移したというのだから
天皇家に近い豪族だったと思うし、
九州~関東~東北地方の金や銅などの資源を求めていた中心人物だったかもしれない。
武蔵の秩父氏は物部系の西漢氏をルーツにもっているのかもしれない。
(地図:赤い部分が武蔵)
丸子氏のルーツである武蔵江戸氏の本姓は、平氏!
平家は賢いのかもな。
源氏でも何でもよかった。
畠山重保の孫、家重が丸子と称したのが始まり。
※畠山重忠の祖。
秩父氏は、板東平氏の流れをくむ秩父発祥の武家・豪族である。
吉田城を中心に居住し、708年の和銅をきっかけに
丹生一族が開拓してから秩父平氏が台頭してきた。
東京の多摩川や玉川上水は、山梨・埼玉県堺の「笠取山」を水源とする。
元は多摩川は「丹波川」とよんだ。「たんば」は「たま」だった。
ここにも羽村という地名があり、縄文中期の遺跡がある。
この丹波から逃れてきた蜂子皇子が出羽三山を開山したといわれ、
後に出羽に赴任していたと。
産鉄の知識があった上に、このような修験道のルーツに
自分の祖先が丹波に関わっていたからだろう。
もし、この丹波が蜂子皇子に関係するならば「四道将軍」がある。
(後で)
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羽黒で五重塔に、平将門が建てたという由縁もあるけれど、
本人が建てたというより、出羽国に赴任している関東(常陸)の平家がいる。
平安時代、平将門の来孫(5親等直系親族)に、秩父重綱(平重綱)がいた。
官主は出羽権守であった事もあり、出羽国へ赴任していたことがある。
また、この平氏は「円子氏」も同族のようで、
秋田県鹿角市花輪町の在名により花輪氏(はなわし)と称していた。
円子氏は関東武士団の成田氏の一族であり、出羽へ向かった。
丸子氏と円子氏は関東に大きな集団をもっていたという事は、
「さきたま王国」があったからであり、
この大古墳群を中心に東北へ征伐するための拠点をもつために敢えて
武蔵へやってきた(九州から)のならば、
よほど関東には産鉄族が集まるにふさわしい土地だったのだろう。
(群馬と埼玉の馬)
丸子氏と別に円子氏は、「鹿角四頭」という。
鎌倉時代の地頭として奥州征伐にいっている。
ということで、蜂子皇子に丸子がいた事が・・・
蜂子皇子の母が、福島へ逃れる時に、
父の大伴糠手も一緒だった。
糠手は「秦」の名を変えたという話。
(もしくは、秦という名の人と一緒に)
それは、大伴氏が丸子と同族だったから、
秦にしたのでは?
会津物部氏がいることは、
会津が「相津」の由来になったあの「大彦命」が関係すると思った。
難波から武蔵へ向かった、騎馬民族。
武蔵にある鉄剣。(さきたま古墳群:稲荷山古墳)
雄略天皇に仕えたことを示すもので、
日本古代史を解明する上で欠かせない超一級資料。
※雄略天皇は実在しないと言われていたが、
実在したことが判明し、歴史界に衝撃が走った大発見。
この鉄剣をつくらせた「ヲワケ」の系譜が
先祖がオオヒコ(大彦命)で、
関東と九州の繋がりが、東北に影響をもたらし、
一説には、蝦夷とはこの頃に派遣された武蔵の豪族とも。
熊本県江田船山で発掘された剣にも、
同じワカタケル王の名が記されています。
つまり、熊本を拠点として横穴石室をたくさん残している
多氏が残した痕跡に大伴氏が関与する。
太平洋側の茨城~福島。
多氏の拠点であったことは間違いない。
だから、機織の地になっている。会津も。
多氏は、大伴氏と同族。
そこに卵の始祖伝承を残す丸子(和邇)も一緒だった。
また、意富比~(オオヒコ)と記された鉄剣の
「意富」(オオ)は、継体天皇の「オホドノオウ」と
は、ほぼ同じである。
継体天皇について、『筑後国風土記』には
「雄大迹天皇(ヲホドスメラミコト)」で「雄」の字がある。
『上宮記』では「乎富等大公王」で「富」の漢字。
おそらく、日本海の越王がルーツの四道将軍:大彦命と、
東海道で太平洋を北上した建沼河別命(たけぬかわ)
が出会った所→相津=会津なので、津は海、船でやってきた。
航海技術者として「物部」という名にしているのは、
これらの湊の発展かもしれない。
蜂子皇子の一族が、日本海と太平洋に別れたのは、
数百年も前になる四道将軍の末裔だったから?
逃れる海の道を知っていた人々の足跡は残るはずだろう。
日本海にいた丸子の大伴氏は、若狭〜敦賀~出羽へ
(ちょうど敦賀が新幹線で結ばれた)
一方の太平洋は、難波河内~茨城~陸奥へ。
太平洋からきた会津で大伴小手姫ら一族と落ち合い、
川俣町へ向かったのだと想像。
また、「タケヌナカワ」の「ヌナ」が
何度も言っている「渟」の人。(難波のチヌ)
四道将軍の系譜。
沼は水が滞る。
それを流す役目=治水神。
難波は、
渟のことをチヌと呼び「黒鯛」とよんだ。
※津名道代著『トベ達の悲歌』より
西では「茅渟」は「黒鯛(ちぬ)」といった。
そして、改めて大阪の旅をふりかえり、
驚くことが。。。
天皇家になれなかった皇子(実在?)
茅渟王(ちぬのおおきみ)がいる。
広姫と敏達天皇の間に生まれた子が
「押坂彦人大兄皇子」
忍坂部(刑部氏)・丸子部などの
独立した財政基盤だった。
蘇我氏と対立した方の豪族「葛城氏」
で、この葛城氏は采女がいた福島に繋がる。
あの難波で!!
前回も書いてますけど、大阪に到着してすぐグーグルマップで御幸森の神社を見つけてしまう。
関空から難波の海を渡っている時だった。
予定外なのに、強く惹かれる。
この神社、行かねば・・・
唯一皇子をまつる忍坂彦命(別名:押坂彦人大兄皇子)
牧野古墳が墓説。
その神社に連れてこられた時は、本当にびっくりした。
ワニさんの歌があったから!
その花とは、梅のことだった!!
〈難波津の歌は帝の御はじめなり。
大鶺鴒(おほさざき)の帝の難波津にて皇子ときこえける時、
東宮をたがひにゆづりて位につきたまはで三年になりにければ、
王仁(わに)といふ人の
いぶかり思ひてよみてたてまつりける歌なり。
この花は梅の花をいふなるべし。
安積山の言葉は采女のたはぶれよりよみて、
このふたうたは歌の父母のやうにてぞ、手習ふ人の始めにもしける〉
えー!福島の采女、
安積山(額取山)にかけている歌!?
しかも、その梅とは、仁徳天皇のことを指すと。
これ、すごいです。(有料だった・・・)
長年、小手姫を調べてきたからコーフン。
ここ、韓国人街。
いやいや、そんな所に連れて来られた大阪だったのです。
ずっと信夫山の黒姫のことを書いていたからだよ。
この難波から武蔵へ行ったんだよ!
そして福島へ。
大伴氏は、伽耶人が住んでいた居住地をまかされる。
そして、「みしはせ」=靺鞨のこと。
これ、すごい↑(ある図書館で発見)
いろいろある。
だから、小手姫が水で亡くなった(沼)というのは、
黒沼神社の治水神、石比売と同じにしていることでは?
小手姫も治水の神をもつ系譜だから?
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ということで、多氏とワニ氏の系譜をざっとおさらい。
大彦命の系譜(wikipedia)
神八井命(神武天皇の弟?)→多氏は神武天皇の系譜とも言われる。
和珥氏と、王の耳の漢字だから、ミミ族という海洋民族の事。オシホミミなどがそう。
大彦命は、阿部氏になっている。
葛城氏は、武内宿禰の祖にあたる?
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この四道将軍の時代が、蜂子皇子を生み出したのかもしれない。
秦氏が隠れているというのは、丸子のことだった。
後に、小野篁の和邇氏とするため、稲荷神社を建立=竹駒神社。
こちらは、栗田氏(小野氏と同族かも)
また、東海道(海道)と山道の合流する地点は「玉」の地名。
和邇の末裔は、小野氏だから、山形への道は「小野」と。
その小野には、何が祀られているか?
釜房山がありますね。
そこに、石巻牧山、零羊崎神社に鎮座する「栄存法印」の
碑があるのですよっ!
だから、石巻の真野にある零羊崎神社は、
葛西氏と安倍氏が関わってきた。
それは、日和山が和邇氏のルーツの鹿島天足別命を祀るため。
この山道、海道の合流地点の「大河原」。
4号線にあり、交差する地点。
奥州合戦でも、よく使われた道。
たくさん奥州合戦で逃れた人々が討ち取られたと聞く。
アテルイの子孫と言われる照井氏が亡くなった伝説もある。
あそこで落馬したのだ。→落馬、冠を落とされる(政権交代)
また、奥州藤原氏の3代目、秀衡の子「国衡」も
その道から山形へ逃れようとしたが討ちとられたと伝わる。
近くには、国衡の古墳もある。
そして、その道には「あこや姫」の伝説もあり、
温泉を発見したと伝わる「金ヶ瀬」
金の瀬なのですよ。
金の道でもあり。
金売吉次ね。
とにかく、隠された東北の道は、山形と福島の境界にある。
これらの話は、まだまだたくさん繋がり、
息長氏のこともあるのです。
どんどん顕かになっていくスピードが速くて、
追いついていくのが、大変。
ひとまず、この話は、これでおしまい。
鳥海山の「マリモ」が素晴らしいので、リンクしておきます。
これみて、癒されて下さい~。
こちらも、翡翠のヌナです。