前回の白鳥神社で、ヤマトタケルの由来が少しわかったので、
追記しておきました。→天香森

元は、天香森にあったそうです。

 


さて、白鳥神社からダムの方へ向かうと温泉施設があります。
広いところで、キャンプ上がありすぐ側がダムです。
その森のちょっと奥まったところに観音堂がありました。

 



大蛇伝説が多い日本ですが、
日本の民話では、大体、土砂災害、大雨などの自然災害で
ヤマタノオロチがあるように、
「蛇崩れ(じゃくずれ)」などと言われた話が多いです。

炭鉱がとれた場所に多いので、
穴掘りの痕跡もあります。

また、古来から人柱の風習があったので、
祟りから封印させるために、いろんな祀り方をしています。

 

ただ、今回の話しは、人柱を助けた話。

 

 

大蛇伝説(茂庭)

 

茂庭には「大蛇退治」の伝説が残っています。

伝説にまつわる地名や史跡が、今に伝わっています。
大蛇は、菅沼というところに棲んでいて、
水害を起こして村々を襲うものとして恐れられていました。

このため、近隣の村々から人身御供を選ん
で捧げていたということです。

建久3年(1192年)、人身御供にされる娘を救うために

関東からやってきた斎藤実良が、神の御加護によって授かった矢で
大蛇を退治したといわれています。

そして、このとき村人の願いによってこの地にとどまった斎藤実良が、
名を改め以後十三代にわたって
この地を治める茂庭公の初代となったということです。

大蛇の体は三つに切り離し、首を川下の田端(田畑)に、尾を
中ほどの梨平に、胴を川上の名号に埋葬し、それぞれの場所に、
田端の御嶽神社、名号の御嶽神社、梨平神社を建てました。

首、胴、尾とせず、中に尾をはさんだのは、順に並べれば生き返って再
び害を及ぼすかもしれないと怖れたためだといわれています。」

 


 

※藤原秀郷のムカデ退治の図(中央が龍女)

 

という昔話ですが、
大蛇を退治したのは、「斎藤」姓。
栃木県には斎藤姓が多いので、藤原氏が多いという事です。

後日談(茂庭ガイドより)
大蛇が退治されて2年の歳月が過ぎた建久5年(1194年)、
猿姫(斎藤実良の家臣今野図書の妹
で、人身御供として連れて来られた)は、18歳で亡くなりました。

その夜、不思議にも姫が秘蔵していた観音様から、
光明が虹のように対岸の広瀬山に飛んで行ったので、
この地に姫の棺を埋め、その上にお堂を建て、
観音様を安置したといわれています。

 



慈眼視衆生広瀬観世音菩薩と尊称され、縁日には
必ず雨が降るといわれ「泣き面観音」とも呼ばれています。

 

 

観音様のから虹のような金色の光が対岸まで飛んで行ったと。

梨平の方が残してくれました。

 

梨木も、瀬織津姫があったような~。

 



ということで、猿姫が祀られているのが「広瀬」と呼ぶのです。

 

 

両端の龍は、あうんになっています。

口があいて舌が出てる?龍

広瀬川がありますけど、伊達郡から来ている仙台藩なので、
広瀬川の、人柱といえば・・・橋姫。

瀬織津姫とも言われる。→十八夜観音堂。
同じ観音のエネルギーをもってます。

 

なんでも怨霊で片付けられてますけど、

危険な場所というのはあるから「近づくな」と

人を避けていた所を「塞ぐ」意味があってさえの神としてきた

背景があるといいます。

多くは、古墳や石室、蝦夷穴などです。

 

元々あった話が例えば、100年という間ですと、

人が人に伝えていくと内容が変わってしまいますよね?

記憶は曖昧になります。

 

時代が800年頃になると噴火や地震が多かったため、

評価が変わり、鬼神などというようになっていったわけです。

という話を聞いたばかりでした。


※京都の橋姫

 

 

茂庭氏のルーツ

 

山城国愛宕郡八瀬がルーツと言われ、
斎藤行元が初代との事。

【斎藤系茂庭(鬼庭)氏】

 



下野国(現:栃木)に居住していた斎藤実盛が那須へ移住、
1192年に子の実良が伊達郡茂庭に土着した。

大蛇伝説に登場する「斎藤実良」が藤原北家利仁流。

だから~、
利仁は、栃木にいた。

 



藤原利仁公の墓が栃木県の関白山神社にある。
(ただし、利仁の墓は複数有)
いっぱい蚊に刺されたとこ。

 

 

 



鞍馬寺縁起により、「天下一関白流獅子舞」として
残されている所なので、「関白」とよびます。

この藤原利仁は、平安時代前期の貴族・武将。
藤原北家魚名流。

 



なので、大蛇退治など、呪術でふさいできた人たちが、
藤原北家で藤原利仁がそれにあたる。

利仁は、悪路王退治の英雄になっている。

 


その遠祖は、藤原鎌足で、祈祷を生業とする人を
役職名として「斎藤」と名乗ったのです。

それに対し、忌部は、斎部とし(裏方へ)
表では、鎌足が斎藤と名乗ることになったと考えられます。

斎藤実盛(平安末期)の本拠地は、幡羅郡だった!
現在の熊谷(埼玉県)。
多賀城に原郡の名があるので、古くから多賀城にきていたのです。
藤原家と伴ってきているわけですね。
祭祀儀礼のためと思われます。

そのルーツをもつ茂庭氏で、「鬼庭」とも書きます。
鬼は鬼道とされた卑弥呼のルーツをもつのだと思い、
呪術が強かったからと言う。

しかし、鬼庭から茂庭に変えている。
きっかけは、豊臣秀吉。

13代鬼庭良直(左月斎)(以降から伊達家に仕えていた人)
伊達政宗を人取橋の戦いで助けている。
後、鬼庭綱元(嫡男)が、名古屋へ行った際に、
豊臣秀吉に気に入られ、鬼庭から茂庭に変えるように命じたと伝わる。

・・・呪術を解かれてませんか?キョロキョロ
秀吉の関係について問題視されたのか、
綱元の子が→良綱(良元)が家督を相続する。

それからいろいろ揉めていたみたいですけど。

茂庭氏も伊達政宗に仕えていた呪術チーム、と思います。
なぜなら、


鬼庭氏は、志田郡松山城をお拝領し、
その方の家臣のお寺=三古寺に2月に行ったので、
鬼庭氏の一人が知人を通して、私にコンタクトを取りたい、おばけ

となったわけです。

※鬼庭良元が、鬼庭周防とよび(仙台大神宮)にいた。。。

最後は、原田○○もきた。おばけおばけ

(何も言われてなかったな)
(伊達騒動のこと?知らない・・・)ヒヨコ
でも、至って真面目なメッセージで有難かったです。ウインク

繋いだのが、閖上の観音様(富観音)だったからすごい!
リアルです。
閖上の観音も同じく「富」主観音ですから。
これが羽黒講の力なのです。

 

【追記】松山の羽黒神社には、小野寺鳳谷が描いた

大蛇退治の絵馬が奉納されていると言います。

 

なるほど。

そーいうことだったのか・・・。

松山には、石雲寺があり、
茂庭氏三代が祀られています。

てなことで、再び、伊達郡にライトが当たる。
たぶん、気になっている所にいけば、
なんとかなるんでしょう(←ちょっとテキトー)

 

田村御前の墓------------------------------

 

おまけですが、伊達政宗の母のとこへ。

近くまで行ってませんでしたが、
お墓があるそうです。(写真なかった)

三春城主田村清顕の正室で、伊達政宗の正室愛姫の母である田村御前は、
清顕の急死後、跡目争いに巻き込まれ伊達家と対立し、
船引に隠退しました。

その後、相馬領堤谷に移り、最後に茂庭の
地に移り住んだといわれています。


なぜ伊達領に移ったかは明らかではありませんが、
三界に身の置き所の無くなった者にとって、
その頃の茂庭は格好の隠れ里だったのかもしれません。


隠れ里!!

そんな感じ~。


その茂庭さんが接触してきた日の次の日、
愛子のガーデンガーデンで花を買いにいったのに、

立ち寄ったのが、この観音堂でした。
「鬼子母神堂」

 



ふっと思いだすからすごい。
マリア様です。

 

 

愛姫(政宗の娘)が愛子にいたからだっけ?

つまりは、伊達政宗に関わる奥方や母などの
女性たちが、いろいろ繋いでいたことなのですが、
クリスチャンだったんですかね。

それは、今、こんな時代だからこそ、
母系を大事に思いだすことにあると思っています。
そのことは、大事にひろって歴史を綴っていくつもりです。

ひとまず、茂庭ミッションは、おやすみ。
まだ続きそうです。

 

【茂庭ガイド】PDF

https://www.city.fukushima.fukushima.jp/toshi-keikan/machizukuri/toshikekaku/kekan/kekankese/documents/moniwagaido.pdf

 

 

※半田沼の大蛇伝説(藤原秀郷と平将門)の話しはこちらを。