曇 寒暖計六十度(注・=摂氏15.6度)

 

 椿山荘観楓会中篇【東都茶会記】を認む。

 

 山中吉郎兵衛の手代仏国の骨董商ビング氏を伴ひて来宅しければ、金岡の紅蓮、舜挙の双笛を始めとして十数幅示せり。ビング氏は先代ビング氏の子息にして未だ三十歳前後なるが、此程支那に到りて銅器等を買ひ又去る十八日大阪にて田中光顕伯の入札品を需めたる由、近年日本の骨董品が騰貴して容易に手を出す事能はざれば多量の仕入れは困難なりきと言ひ居れり。

 

[徳川慶喜公薨去]

 夕刻より我善坊倶楽部にて稽古を為せり。

 

 今晩四時徳川慶喜公薨去せりとの報あり。先年余が御殿山の大師会に於て禅居庵を受持ちたる時、公は渋沢男爵と共に席中に入来りければ、余は男爵の紹介にて初めて公に謁見せり。公の末女は徳川圀順(くにゆき)侯(爵)の夫人となられたれば、徳川家一門の婚礼披露等にて余は屡々(しばしば)公を見受けたれども固より染々と言語を交へたる事なし。唯今夏新宅に白紙庵に掛く可き掛物の揮毫を公に乞はんとて水戸家の執事福原修氏を以て申入れたるに、公は近年揮毫の依頼に応ぜざれども格別の依頼なれば一枚だけ執筆すべきに就き、其文句を如何にするや申出づ可しとの事なれば、白盡(尽)乾坤及び白眼看他世上人など云ふ文句を選びて差出し置けるが、多分揮毫に及ばずして薨去せられたるならん、不日福原氏に聞合す積りなり。

 公は常人より少しく丈高き方にて、さのみ肥満ぜざれども大体に於て大形の方なり。晩年は背屈みて頸少し落込み、去月徳川武定子(爵)の結婚披露に来会の時頗る老衰の体に見えたり。公は多芸にして能く宝生流を謡ひ、囲碁を嗜み、蜂須賀侯(爵)が其相手にて初段に二、三日の処なりしと云ふ、又狩猟を好み写真を攝りなどして何事にも堪能なりしが、静岡へ隠居以来は深く韜晦して近親の人ならざれば之を知る者なかりしとぞ。

 

 

 

 

 

 

 

 

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