プレイバック中洲通信#7 <1992年2月号>日本ヌーベルバーグの挑戦 | 中洲ママ40年 藤堂和子の“中洲通信” 「博多で待っとぉよ。この指とまれ!」




中洲ママ40年 藤堂和子の“中洲通信” 「博多で待っとぉよ。この指とまれ!」

勘三郎、大島渚、そして團十郎と、去年から今年にかけて
演劇界、映画界を代表する人物が立て続けに亡くなっています。
しかし人は去っても、彼らが生涯を賭けて作り続けた
芝居や作品は残り続けます。
今回のプレイバック中洲通信は1992年2月号、
「日本ヌーベルバーグ映画の熱風」と題して
大島渚監督らを中心に、60年前後に映画界に吹き荒れた
日本版ヌーベルバーグ映画の特集から、
映画監督の篠田正浩監督と
女優で、寺山修司の生涯におけるパートナーであった
九條今日子さんの対談を紹介します。


中洲ママ40年 藤堂和子の“中洲通信” 「博多で待っとぉよ。この指とまれ!」


九條 あのころ、みんなとにかくエネルギッシュで、血走ってたわね。
篠田 なんか討ち入り前夜って感じ。これで討ち死にしてもしようがないと。われわれの映画に参画したスタッフ全員がね。
九條 でも、あのころのヌーベルバーグの監督の中で篠ちゃんとだけ口がきけたという感じで。なんかしらね。大島さん一派は怖かった。(中略)
篠田 このころは実験時代といっていいと思うんだけど、われわれの仲間は、時代の実験性を引き受ける勇気があったんだと思う。大島や吉田が同じ仲間であれだけ政治主義や人間の思索というのを徹底的に映画にした勇気というのは、やっぱり、いくら資本と体制が揺らいでたからといっても、相当の気力がないとできなかったですよね。
九條  何かみんなが、世界に向かってというか世間に向かって怒ってたような気がするわね。
(中洲通信1992年2月号「日本ヌーベルバーグの熱風 若者たちが牙をむいた60年」より)



1950年代後半にフランスの映画界で巻き起こった
ヌーベルバーグ(新しい波)運動。
それと同時期に大島渚、吉田喜重、そして篠田正浩ら、
松竹所属の映画監督の間で起こった、新しい映画の流れが
「日本ヌーベルバーグ(松竹ヌーベルバーグ)」と呼ばれています。
黒澤明、小津安二郎、溝口健二といった
戦前からの大御所がまだ現役で健在だった
50年代は日本映画黄金時代でもありました。
そんな時代に生まれた、若き作家たちによる「新しい波」。
それは時代の必然だったのかもしれません。


九條 基本的な質問なんだけど、どうして松竹だけがヌーベルバーグっていったの。
篠田 簡単に言えば松竹にはディレクターシステムという作家の映画の伝統があったわけ。監督が映画を作るという建前をずっと守ってきた。端的に言うと小津安二郎という人がいたから。(中略)僕に言わせれば小津安二郎がヌーベルバーグの第一走者だったと思いますね。(中略)一人の個人の作家が大きな組織や資本を相手に自分をどうやって表現するかという実践をやったと思うんですよ。僕らや大島が会社のあてがいぶちもらってまで映画なんか作るまいとしたのは小津さんのような監督がいたからだと思いますよ、
(中洲通信1992年2月号「日本ヌーベルバーグの熱風 若者たちが牙をむいた60年」より)


中洲ママ40年 藤堂和子の“中洲通信” 「博多で待っとぉよ。この指とまれ!」

小津安二郎という巨大な存在があったからこそ、
当時の若い作家はそれに触発され、
新しい時代を切り拓いていきました。
若い世代が「若く」いられるのも、
「高い壁」となるベテラン世代の役割なのかもしれませんね。
現在、松竹という会社、撮影所にこだわり続け、
映画を撮り続けてきた名匠・山田洋次監督の新作、
『東京家族』が話題となっています。
この作品は、小津監督の『東京物語』への
オマージュとして撮られたそうです。
大島監督らの実験に挑む精神は受け継がれ、
一方では山田監督はまだ伝統を重ねていく――
日本映画の歴史の重さと奥深さを感じさせます。
今度の週末は映画でも観ませんか?