O氏と奥さんのこと | 曇りときどき晴れ

O氏と奥さんのこと

先日、O氏の奥さん(=義母)が急逝した。
その日の昼過ぎ、入所している施設の看護師から「なるべく早く来てください。」と電話があった。
私は仕事を途中で切り上げ、ヨメと一緒に施設にクルマを走らせた。
施設に到着したのは午後5時で、ヨメが義母に話しかけると、義母はスーっと涙を流し、
大きくため息をついて静かに眠りについた。
少なくとも私とヨメ、それに同席していた私の母の3人にはそう思えた。
しばらくして担当の医師がやってきて脈と呼吸と瞳孔を調べ、「お亡くなりになりました。」
と、静かに告げた。
私は、ドイツにいるヨメの妹に電話をかけて知らせた。
ふだんあまり感情を表に現さない義妹は、電話の向こうで大声で泣き叫んだ。

義母は、線条体黒質変成症という10万人に2~3人と言われる不治の難病だった。
生きていることの方がつらい病気だ。
発病したのは14年ほど前のこと。
最初は、症状が似ているパーキンソン病ではないかと神経内科の医師も思ったようだ。
線条体黒質変成症はパーキンソン病に比べ、からだが動かなくなっていくまでの期間が圧倒的に短い。
義母も4~5年で、身体を動かすことはもちろん、話したり食事を摂ったりすることができなくなった。
病院へ連れて行ったりするだけではなく、身の回りの世話一切を行なったのは、夫であるO氏だった。
そのO氏も9年前に前立腺癌、7年前に緑内障、5年前に右腕の粉砕骨折、3年前には喉頭癌と、
病気と怪我が続き、昨年11月千葉県がんセンターの緩和病棟で亡くなった。
O氏は最後まで、難病の奥さんのことを思っていた。

そして平成22年5月5日、義母であるO氏の奥さんが亡くなった。
その日は、O氏と奥さんの50回目の結婚記念日だった。
偶然とは思えない符号だが、金婚式を迎えた日、義母は夫のもとに旅立った。

義母の晩年は彼女にしか理解しえないつらい毎日だった。
つらい「生」から解放されて、よかったとも思う。

生きるとはどういうことなのか、身近な人の死に接すると、生の意味を考えるようになる。
若い頃は自分が死に向かって確実に歩を進めているという実感がなかったから、
あまり深くは考えなかった。
7年前に実の父親が亡くなり、昨年11月に義父、12月には友人、そして今回は義母を亡くして、
私のような鈍感な者でさえ若いころよりは考えるようになった。

生はいつか終わる。
多少先延ばしすることはできても、不可避であることに違いはない。

最近、主観的な意味での「生」とは、濃度なのだと思うようになった。
言い換えるなら、どれだけ自分で納得できるだけのことができるか、ということ。

アップルのスティーブ・ジョブスは、2004年にすい臓癌が見つかり余命半年との宣告を受けた。
癌の摘出手術が成功した翌2005年、スタンフォード大学の卒業式に招かれたジョブスは、
次のようなスピーチを残している。
「今日が人生最後の日だとして、今日これからやることは本当にやりたいことなのか?
 もし『No』という答えであるなら、何かを変えなければならない。」
そしてこう締めくくったという。
「ハングリーであれ、そしてバカであれ!」

人生は自分である程度デザインできる。
自分の努力だけではどうにもならない部分ももちろんあるけど、まあデッサンくらいはできると思う。
そのデッサンにどこまで色付けできるかわからないが、やれるだけのことをやる。