で、「おそ松くん」であります。



この時点では、サンデーでも連載後期にあたる時期なのかな。この年、マガジンで「天才バカボン」が始まり、読者の目もそちらに移っていくのではありますが、まだバカボンも連載当初の若干ほのぼの系の時期で、それ以降のバカボンのパパのクレイジーな活躍までは間があります。
赤塚不二夫の作品って、何故か連載当初は割とマトモに人情噺っぽかったり、御涙頂戴的な話だったりするんだけど、途中から堰を切ったように狂った様にギャグが疾走するんだよね。
「もうれつア太郎」なんか、お父さんが亡くなるまではフツーだもんなあ。

赤塚不二夫とフジオプロ名義の作品なんだけど、これが単なるアシスタントを抱えたプロダクションではなくて、アイデアや作画に至るまで、本当にプロダクションとして分業していたらしく、キャラクター造形もアシスタントと言うか、別のスタッフの作業だったりと言うのが確立していたそうです。
まあ、「さいとうたかお」なんか早くから、完全に分業していたのは有名な話だけど、ギャグ漫画の分野でこれをやっていたのは、おそらく現在でもあまりないんじゃないかな。
ギャグ漫画って、作者の一代限りの職人仕事って感じで、集団作業って無理なんじゃないかなって(作画のアシストはあったとしても)思うけど、赤塚不二夫はかなりの部分、スタッフを交えて作成していた様です。大の映画好きだし、そもそも石森章太郎や藤子不二雄たちと、スタジオゼロを発足したりしていることもあり、集団でのアイデア出しなどは当たり前だったのかもしれない。

それを裏付けるかどうかは分からないが、当時のスタッフ、古谷三敏、高井研一郎、北見けんいち、長谷邦夫、とりいかずよし、土田よしこ、と言った、独立後にも名を成した漫画家が多いのも特筆すべき点で、その頃の作品作成作業がかなり漫画家としてのスキルアップに作用している様な気がしてならない。

なんて、マジメに語っていますが、本当のところはよく知りません。でも、そんなに的外れではないでしょう。
昔、縁あって「赤塚賞/手塚賞」の受賞パーティーに何度か行った事があるんだけど、その時は手塚治虫はすでにお亡くなりになっていたし、赤塚不二夫も体調がすぐれないとのことで一度もお顔を拝見できなかったのは残念でした。