746(天正16)年に行基が開き,1333年、後醍醐天皇が隠岐よりでて兵庫で泊まった時に腹痛となり,ここの「霊水」(左下写真が「霊水」の井戸)を薬水として献上したところ回復したことから「薬仙寺」と名付けられました。境内には,福原遷都の際に後白河法皇を幽閉した「萱の御所」跡も本来の場所が1953年の運河拡幅工事にともなって水没するためにここに石碑(右下写真)が移されています。国の重要文化財指定を受けた本尊等もあります。兵庫港開校時はイギリス公使の宿舎にもなりました。


薬仙寺1

薬仙寺2 薬仙寺3


 ここは,1975年に設置された神戸空襲戦没者慰霊碑(下写真)があります。卍型は焦熱地獄の熱風と平和の風を表現しています。その隣の写真はこの地で働いていて犠牲となった女性の供養塔です。

薬仙寺5 薬仙寺4

 1998年には,新たな石碑が追加されました。1945年3月17日の空襲で焼け焦げた和田橋の石材が,1995年1月17日の震災で倒壊しました。それを土台を東:青(青龍)、南:赤(朱雀)、西:白(白虎)、北:黒(玄武)に塗り分けた上に設置して鎮魂のモニュメントとしています。土台には両日の日付が刻まれています。毎年3月17日ここでは慰霊の行事が行われています。(TM)

薬仙寺6 薬仙寺7

「薬仙寺」は兵庫区今出在家町


2008.11.11

笠松商店街1 笠松商店街2

 戦前より続く商店街は数多くあると思いますが,ここ「笠松商店街」は神戸大空襲でも被害を受けずに残っている商店街です。現在も数件ですが戦前からの建物が商店や路地に残っています(写真の2枚)。

笠松商店街3 笠松商店街4
 昭和10(1935)年頃、商店街は戦前はここ笠松から,現在の県立兵庫工業高校のグラウンドの横の通りを抜け薬仙寺、清盛橋を通って真光寺から兵庫大仏前、さらに新開地まで,ほぼまっすぐな商店街がありました。兵庫工業高校の北隣には芝居小屋があり,映画館も13軒、遊郭もあった「神戸で一番華やいだ」場所として栄えていました。和田岬の工場で働いた人々が帰宅時に給金の日にここで楽しんだのかもしれません。
 現在は,旺時を偲ぶ賑わいはありませんが,地元に密着した商店街としてその名残が伺えます。(TM)

「笠松商店街」は 兵庫区笠松通2丁目


2008.11.4

 前回の「三石神社」北隣に和田神社(右写真の左側が三石神社)はあります。ここも三菱造船所の拡張にともない移転しました。
和田神社1 和田神社2

 イザナギ・イナナミの子である蛭子神が淡路島から初めて上陸した地が和田岬との伝えから,1662(寛文2)年、領主の尼崎藩主・青山幸利が社殿を造営しました。
 元々,兵庫津(湊)の先にあったので,1729(享保13)年,菱垣廻船問屋が航海の安全を祈願して,石造りの鳥居(下写真)を寄贈しています。鳥居の奥はJR和田岬駅です。
和田神社3

 本殿(最上段右写真)の手前の灯籠と奥の木々には焼夷弾の跡(写真の木の裂け目)が今も多数見ることができます。神戸への空襲は,通算83日、128回ありましたが,このうち1945年2月4日の神戸空襲は,米軍の空襲がそれまでの軍事施設等限定から,焼夷弾による市街地への無差別絨毯爆撃へと方向転換するための「テスト空襲」として行われました(『新修神戸市史』より)。和田神社への焼夷弾攻撃もその一つで,境内にはその慰霊を込めた石碑があります。(TM)
和田神社4 和田神社5


「和田神社」は 兵庫区和田宮通3丁目2-45


2008.10.21

 再び和田岬から。「三石」の由来は,200年、神功皇后が三韓遠征の凱旋帰国中に船が潮に巻き込まれ和田岬に上陸して進退を卜占い,その際に3つの石を立てて,廣田神社・生田神社・長田神社・住吉神社の神々を祀ったといわれています。または三韓遠征に向かう際に産気づいた神功皇后が,月延石や鎮懐石と3つの石を腰に巻いて出産を遅らせ帰国後無事に出産を果たしたという伝説なども残されています。他にも602年には推古天皇がこの地を訪れて玉座とした石を三石(中央写真)と呼んだとの説もあります。神社は,元はより海岸に近いところにありましたが,1906(明治39)年、三菱神戸造船所の拡張にともない現在の地に移転してきました。


三石神社1 三石神社2 三石神社3

 1945年3月17日、「空襲の終わり頃より造船所付近に敵機侵入・・・社務所大玄関にエレクトロン5・6発落下し、防空壕より出て空き地に避難せんとせしS社司母堂、肩先に一弾命中。人事不省となられ、S社司は発火中のエレクトロン焼夷弾を手づかみにて外に投出されしため、両腕顔面等を火焼しつつ、K社掌と共に消火し、事なきをえたるを以つて、母堂の手当をしたるも、間もなく昄幽さる。然るに又焼夷弾、玄関並びに大広間等に落下し、敢闘も終に効無く炎上せし・・・」(『社務日誌』より抜粋)
 『現時局下の防空』(1941)には,「エレクトロン焼夷弾は、燃えつくす迄は消えないので、濡筵類や、砂、土等を被せて火勢を抑え、長棒やシャベル等で戸外に持ち出す」と解説されていますが,実際は「数千度に達する高熱の火柱を吹き上げ鉄をも溶かす」兵器です。これを母親の「肩先に」直撃されたり,「手づかみに」したり,とは。

 左の写真は,焼夷弾で焦げた鳥居(この鳥居は阪神大震災でも倒壊し再建されました)と右写真は焼夷弾で損傷した箇所に後からコンクリートで埋めた灯籠です。(TM)
三石神社4 三石神社5



「三石神社」は 兵庫区和田宮通3丁目2-51


2008.10.7

 前回、和田岬砲台を紹介しましたが,舞子砲台跡(舞子台場)も簡単に紹介します。ここも,和田岬砲台とほぼ同時に1863(文久3)年,勝海舟の指導のもと,幕府の命を受けた明石藩が建設をします。対岸の淡路の岩屋には徳島藩によって松帆砲台が建設され,使用はされませんでしたが海峡で挟撃できるようになっていました。


舞子台場跡1 舞子台場跡2

 いまは上写真のように大砲を模したベンチが置かれているところにW字の形の石垣の一部が見られます。現在はこの土台の一部が残るだけですが,建設当時は,土台部分が東西70m、海岸からの高さ10m、で総石垣造りは国内では他に例のないものとされています。
 以前この地にあったファーストフード店がマンションに建て変わる2003~4年に発掘調査の結果,発掘された遺構がそのまま公開されています(下写真)。


舞子台場跡3

 余談ですが,ここは毎年7月に行われている「平和行進」のリレーをする中継地点にあたります。 (TM)

「舞子台場跡」は 垂水区東舞子町8


2008.9.22