私はあの日、何をしていたか?
1995年1月17日、午前4時45分。
前日から泊まりに来ていた友人とたわいもない話をしていた。
ふと、時計に目を向けると4時45分を針が指し示していた。なぜ、時計に目を向けたのかはよくわからない。
そして、不意に何かがよぎり…
「あと、1時間後に大地震が起こるかもよ!」
と、私は口走ってしまった。そんな言葉に友人は、笑いながら
「大阪は、地震と無縁な土地だよ~。大丈夫!」
と。確かに…その時点では、地震と無縁な土地だと言われてた感じでした。大阪は地震より豪雨による浸水、津波とかのほうがヤバイとも。
私も「確かに~( ̄▽ ̄;)」と、笑っていました。
しかし…やって来ました。あの大きな揺れは、丁度1時間後にやって来ました。
正直、怖かったです。
地面とも家とも…何でしょう?箱そのものが跳ねるような感じで動いている?バランスも取れず、ただその場にしゃがみこむ感じで…一ミリも動けません。1分?2分?数分の揺れの後に揺れが止まりました。
その瞬間、外に出なきゃと。玄関へ向かう途中は、食器棚や食器の割れた破片が散らばっていて…破片の上に厚手の布をかけて足には、スリッパをはいて友人の手を引き外に脱出しました。
外は、とても寒く凍えそうになりながら、周りをみわたしガス漏れの臭いに近所の人たちと協力しながら、ガス栓を閉めて回ったり、互いの安否確認をしたり。そこで、1人の方が倒れてきたタンスの下敷きになって亡くなったことがわかりました。
一段落して、ホッとした次の瞬間、次の第2波が来ました。夜も明けきらない暗闇に悲鳴があちらこちらで上がりました。ここで、さらにもう1人亡くなった?か負傷したと。
その後もしばらくはその場にいたのですが…とりあえず、揺れもおさまった感じだったので、暖をとるため各々自宅に戻りました。
空が白み初めて、テレビをつけると…高速道路が横たわっている映像が。
衝撃的でした。
暫くすると、外が騒がしくなり…外に出てみると何やら皆同じ方向に向かって歩いていました。近くを歩く方に尋ねると「電話をかけるために並びに行くんだ」と。確かに、自宅の固定電話は一切繋がらない状況でした。
皆さん、10円玉を握りしめ公衆電話の列に並んでいました。とりあえず、私は友人に電話をかけるように促し無事を伝えさせました。友人は、そうとう怒られたそうです。それも、心配ゆえのことと私は安心しました。友人に怪我をさせては、その子のご両親に面目がたたないし、私自身ひとり暮らしをしている以上家主として責任があると感じていたので、本当に申し訳ない思いでいっぱいでした。そうやって、叱ってくれるご両親を羨ましく思いました。
私は…私の安否を心配してくれた人は、悲しいかな?血の繋がりのある両親や兄弟ではなく、赤の他人である近所の方や友人たちだけでした。ちょっと複雑でした。
電話が繋がるようになって…一番に電話をかけてきた友人は、今でも大切な存在です。
電車が走るようになったら仕事に。そして、安否確認。家に帰ったら、新聞の死亡者欄に目を通し、そこに知り合いの名前が載っていないことを確認する日々。
体調が悪くても病院に行く間もなく、気がつくと悪化させていました。
家自体もあちらこちらにヒビが入ったり、壁も若干崩れたり…入り口は少し傾き扉が閉まりにくい状態で…ゆっくりお布団で寝るということができませんでした。恐いという思いで小さな椅子に毛布を頭からスッポリかぶり丸まって寝る日々でした。
今でも鮮明に覚えているあの日の出来事。そして…悔やまれるのは、あの時…「あと、1時間後に大地震が起こるかもよ」なんて口走らなければよかったと。
1995年1月17日、午前4時45分。
前日から泊まりに来ていた友人とたわいもない話をしていた。
ふと、時計に目を向けると4時45分を針が指し示していた。なぜ、時計に目を向けたのかはよくわからない。
そして、不意に何かがよぎり…
「あと、1時間後に大地震が起こるかもよ!」
と、私は口走ってしまった。そんな言葉に友人は、笑いながら
「大阪は、地震と無縁な土地だよ~。大丈夫!」
と。確かに…その時点では、地震と無縁な土地だと言われてた感じでした。大阪は地震より豪雨による浸水、津波とかのほうがヤバイとも。
私も「確かに~( ̄▽ ̄;)」と、笑っていました。
しかし…やって来ました。あの大きな揺れは、丁度1時間後にやって来ました。
正直、怖かったです。
地面とも家とも…何でしょう?箱そのものが跳ねるような感じで動いている?バランスも取れず、ただその場にしゃがみこむ感じで…一ミリも動けません。1分?2分?数分の揺れの後に揺れが止まりました。
その瞬間、外に出なきゃと。玄関へ向かう途中は、食器棚や食器の割れた破片が散らばっていて…破片の上に厚手の布をかけて足には、スリッパをはいて友人の手を引き外に脱出しました。
外は、とても寒く凍えそうになりながら、周りをみわたしガス漏れの臭いに近所の人たちと協力しながら、ガス栓を閉めて回ったり、互いの安否確認をしたり。そこで、1人の方が倒れてきたタンスの下敷きになって亡くなったことがわかりました。
一段落して、ホッとした次の瞬間、次の第2波が来ました。夜も明けきらない暗闇に悲鳴があちらこちらで上がりました。ここで、さらにもう1人亡くなった?か負傷したと。
その後もしばらくはその場にいたのですが…とりあえず、揺れもおさまった感じだったので、暖をとるため各々自宅に戻りました。
空が白み初めて、テレビをつけると…高速道路が横たわっている映像が。
衝撃的でした。
暫くすると、外が騒がしくなり…外に出てみると何やら皆同じ方向に向かって歩いていました。近くを歩く方に尋ねると「電話をかけるために並びに行くんだ」と。確かに、自宅の固定電話は一切繋がらない状況でした。
皆さん、10円玉を握りしめ公衆電話の列に並んでいました。とりあえず、私は友人に電話をかけるように促し無事を伝えさせました。友人は、そうとう怒られたそうです。それも、心配ゆえのことと私は安心しました。友人に怪我をさせては、その子のご両親に面目がたたないし、私自身ひとり暮らしをしている以上家主として責任があると感じていたので、本当に申し訳ない思いでいっぱいでした。そうやって、叱ってくれるご両親を羨ましく思いました。
私は…私の安否を心配してくれた人は、悲しいかな?血の繋がりのある両親や兄弟ではなく、赤の他人である近所の方や友人たちだけでした。ちょっと複雑でした。
電話が繋がるようになって…一番に電話をかけてきた友人は、今でも大切な存在です。
電車が走るようになったら仕事に。そして、安否確認。家に帰ったら、新聞の死亡者欄に目を通し、そこに知り合いの名前が載っていないことを確認する日々。
体調が悪くても病院に行く間もなく、気がつくと悪化させていました。
家自体もあちらこちらにヒビが入ったり、壁も若干崩れたり…入り口は少し傾き扉が閉まりにくい状態で…ゆっくりお布団で寝るということができませんでした。恐いという思いで小さな椅子に毛布を頭からスッポリかぶり丸まって寝る日々でした。
今でも鮮明に覚えているあの日の出来事。そして…悔やまれるのは、あの時…「あと、1時間後に大地震が起こるかもよ」なんて口走らなければよかったと。