種子島銃から見る日本  8/19 MP | 水上哲夫のブログ

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あちこちで話したことなどを書き綴っていきます。おんなじ話を繰り返さないように・・・

1543年、ポルトガル人宣教師が種子島に流れつく。持っていた鉄砲の威力に着目した領主の種子島時尭が2丁を買い取った。代金は2千両(2億円程度)という。時尭は鍛冶師の八板金兵衛に同じものを作るように指示をした。金兵衛は悪戦苦闘した。とくに当時は「ねじ」という概念がなく銃身のねじの作成に苦労したという。

その後作り方が日本全国に広まった。刀を作るときに使われる錬鉄の技術の普及がその根底にある。引き金を引くと瞬間的に発射される方式や命中精度など改良され、鉄砲は世界に比類のないものとなっていった。

戦国時代には、日本には50万丁の鉄砲があり、ヨーロッパのどの国よりも突出して多かった。

 

秀吉の朝鮮出兵時には、明・朝鮮の飛び道具の中心は弓であった。現代の弓道では的の距離は28m、遠的でも60mであり射程もその辺が限界だ。さらに彼らの使っていた鉄砲は有効射程100m程度であり、もくもくと湧き出る煙や音による威嚇が中心で、数も少ない。それに対して日本軍の鉄砲の有効射程は200mであり、圧倒的に遠くから狙い撃ちできる。

 

明・朝鮮は女真族相手に騎馬を中心に戦いを重ねていた。そこで得た経験をもとに日本軍に対抗しようとしたが、そのような戦闘は、日本軍は桶狭間で経験済みだった。騎馬の突撃は大量の鉄砲に壊滅されることになった。

 

細かな改良でよりよいものを作っていこうという気質が日本人にはあり、それが今でも生きている気がする。