11年前の今日、僕は新幹線に乗って滋賀県大津市に向かった。陣痛が始まったとの知らせを受けて、初めての子の出産に立ち会うためだ。



その当時、出産に立ち会うのは、男としての義務のような風潮があったのかどうかは知らない。立ち会うことがいけてる男の条件のような価値観が根付いていなのかどうかも知らない。



だが、今思えば、僕の心の中では、立ち会うことを「最近の流行り」的に捉ていなかったと言えば嘘になるような気がする。立ち会って妻を励ますとか、力になりたい、という崇高な目的よりも、「立ち会ったという事実を作ること」の方が後々に後悔しないかもしれない、というような感じで、やらないよりやった方がいいだろう、と言う程度のものだった。



結論から言うと、そのような動機で立ち会うのはナンセンス、やめた方がいい。



僕は、大津に着いて病院に着くと、助産師さんとともに分娩室に入っていく妻を、なす術もなく見つめていた。



立ち合いに来たんだから入っていいか、と申し訳なさそうに尋ねる。なんとなく居心地が悪い。



「旦那さんはこっち」



と、言われる通りに動くしかない。



妻は命をかけて痛みに耐えている。助産師さんは必死に妻をリードして分娩を促す。



そこにいた僕は、どう励ましたらいいかさっぱりわからない。ドラマのように感情を剥き出しにして必死にがんばれがんばれ!というあの感じはどうしてもできない。



そもそも、これほどの苦痛に耐える人を目の前で見たのは初めてのことで、正直に言って、ここで自分にできることは何もないと一瞬で気付かされたのだ。男の役割はここには何もない。



「旦那さん、手を握って声かけて!」



そう助産師さんから言われたが、そもそも、ここに役割がないと思っている自分には、「何をそこにボーッと突っ立ってるの、この役立たず!」と言われたように感じていた。



ますます無力感が強くなる。



ここにいてはいけないと言う強烈な違和感、苦痛に歪む妻の顔、絶叫、全てが頭の中でぐるぐるとスパイラルを描いて落ちていく感覚。



だいたい、人が苦しむのを見るのは苦手ではある。そういえばSAWというホラー映画で失神したことを思い出す。極度の緊張が原因だろう。



アフリカでワニに襲われるシマウマの動画を見ると、どうしてもシマウマの気持ちに憑依して絶望感を味わってしまうのだ。それでも川を渡るシマウマの群れは一体何に突き動かされているのだろうか、自然は美しい。ぶつぶつ。



その瞬間、膝から崩れ落ちた。

貧血で気を失ってしまったのだ。



悪夢だ。



助産師さんからしたら、この忙しい時に、力になるどころか、世話をしなければいけない人が突然一人増えたわけだ。



次の瞬間、助産師さんから「旦那さん、部屋から出といてー!」と言われ、我に帰り、妻からも「あっち行っといて」的なことを言われ、もはやこれまで、ここに存在していてはいけないと確信した。



そして、言われるがまま、負け犬のように部屋を出て行こうとした。その背中に漂う悲壮感は、想像もしたくない。



と、重い足取りで出口に向かうと、扉の前でもう一度崩れ落ち、頭で戸を開ける形になった。



悪夢の再来だ。

合計2回失神したのだ。



妻は、あいつは役に立たない、自分がしっかりしなきゃ、と思ったに違いない。このことは後になっても語り継がれ、今でも話のネタである。



結果として、僕が意図したかどうかに関わらず、どのような形にせよ、長男の出産に際して、妻に大きな力を与えることになった。



自分が手を握って弱々しい声をかけることよりも、あいつは頼りにならないから自分がしっかり強くなる、と言って命をかけて頑張った妻とでどちらが強いかと言えば、普通に修行をして強くなる悟飯よりも、瞬間的な怒りに我を忘れて眠れる戦闘力を発揮する悟飯の方が強い、と言うのと同じで、結果的に、ピッコロの死のように大きな「きっかけ」を与えることとなったのだ。



そんな僕の好きな言葉は、「虎穴にいらずんば虎子を得ず」だ。



ここでは、決して危険を冒したわけではないが、とっても不甲斐ない思いをすることで虎子を得た、ということだ。



寅年の子だし。

グッジョブ、俺。



そして、二度と出産には立ち会うまいと決心をした。



今日は長男の11回目の誕生日。

家族になってくれてありがとう。

そして、これからもずっとよろしく。