~奈良、1300年の歴史を巡る~東大寺、興福寺
8/25岩佐美咲「マッチ」発売前遠征2 奈良編
岩佐美咲さん8/23から25日まで3日間岐阜、名古屋、大阪と「マッチ」発売前の遠征、この期間でのアピールがとても重要です。私は23日に前乗りして奈良へ行く予定でしたが、大雨の影響で電車が遅れ、この日の奈良観光は断念、大阪に入りました。24日は箕面へ向かい、コンサートに参加、翌朝はリベンジで早朝奈良へ向かいそのあと名古屋に向かいました。1日目2日目の様子はマッチ発売前遠征1大阪、2奈良として書かせて頂きます。3愛知編はすでに書かせて頂きましたので詳細はリンク先をご覧ください。
岩佐美咲Xより
8月23日 名古屋から奈良へ
お話ししましたように、私は23日大雨の影響で富士-浜松間で電車が遅れ、奈良のお寺巡りができなくなりました。とはいえこの日は名古屋からは関西本線で奈良を経由して大阪入りすることにし、奈良駅で下車して周辺だけ見て回りました。関西本線は亀山までJR東海が管轄し、そこからはJR西日本の管轄です。亀山からの路線は本線とはいっても1両編成で山間を走り秘境を走るローカル線問板風情がありました。
奈良駅に到着しました。構内からして歴史と風格を感じる出会いんですね。
現在の奈良駅は現代的な作りですが、すぐ隣には旧奈良駅の駅舎が残っています。中は観光案内所になっています。かつてはJR奈良駅の本棟であった駅舎建築で、平成の駅前再開発に際して保存活用したである。独特の外観は、古都奈良の風致に配慮して設計されたものとされている。
昭和はじめ 国鉄奈良駅前広場(初代駅舎) 写真:「奈良市史」より (奈良市史料保存館蔵)
初代奈良駅の成立は、明治23(1890)年に、大阪電気鉄道株式会社が王子-奈良間に開通した事に端を発する。当初は上記の図のような、木造の駅舎であった。
国鉄奈良駅 撮影:昭和50年(1975)頃 提供:城之内写真
三条通りは、奈良市中心市街地を東西に貫く目抜き通りである。JR奈良駅と奈良公園・春日大社を結ぶ。日若宮おん祭お渡り式は三条通りを上る。平城京の三条大路を引き継ぐ通りであり、現在は奈良市の三条線である。
8/24箕面での岩佐美咲さんのコンサートの後。大阪に一泊し、25日は早朝に起きて倣え向かいました。ならへっ着いたのは7:00頃です。三条通りを東に歩き、商店街を抜けると、15分ほどで興福寺が見えてきます。猿沢池は興福寺の放生池。わずか360mの周囲には柳が植えられており、大変風情がある。小さな池ではあるが、水面に興福寺五重塔の影が映る様子は、奈良公園には欠かせない景観の一つに挙げられる。また、甲羅干しをする亀でも知られている。奈良時代、帝の寵愛が衰えたことに悲嘆した釆女が身投げをしたとの言い伝えもあり、池畔には祭神を釆女とする釆女神社がある。
猿沢池
興福寺の写真と案内より引用
興福寺は、京都山科の藤原鎌足私邸に建立された山階寺が前身。飛鳥を経て、和銅3(710)年平城遷都に伴い藤原不比等によって現在地に移転された。その際に興福寺と名付けられ、以降、藤原氏の氏寺として大いに繁栄、奈良時代初期には四大寺の一つにあげられ、四町四方に170坊あまりの堂舎が立ち並ぶ寺院として隆盛を極めた。治承4(1180)年の平重衡の南都焼討ちによって焼失した堂塔は、鎌倉時代に復興を遂げるが、その後、享保2年(1717)の火災によって、伽藍の西半分を失う。境内には光明皇后創建とされる五重塔(室町時代再建・国宝)、北円堂(鎌倉時代再建・国宝)の国宝建築物をはじめ、南円堂(江戸時代再建・重要文化財)、国宝館などが立っている法相宗の大本山。また多くの仏教彫刻の名品を所蔵している。
三重塔(国宝)
鎌倉時代前期の再建(正確な建立年次は不明)。高さ19m、本瓦葺の三間三重塔婆である。1897年(明治30年)12月28日、当時の古社寺保存法に基づく特別保護建造物(文化財保護法における「重要文化財」に相当)に指定。1952年(昭和27年)3月29日、文化財保護法に基づく国宝に指定されている。
北円堂
国宝。承元4年(1210年)再建。屋根を一重、本瓦葺とする八角円堂である。1897年(明治30年)12月28日、「重要文化財」に相当)に指定。1952年(昭和27年)3月29日、国宝に指定されている。北円堂は養老5年(721年)8月、藤原不比等の一周忌に際し、和元明上皇・元正天皇の両女帝が長屋王に命じて創建させた。現在の建物は承元4年(1210年)の再建で、興福寺に現存する中で最も古い建物である。法隆寺夢殿と同様、平面が八角形の「八角円堂」である。
重要文化財。1789年再建。4代目。屋根を一重、本瓦葺とする八角円堂で、正面に拝所が付属する。1986年(昭和61年)12月20日 、重要文化財に指定。三十三所第9番札所。南円堂は藤原北家の藤原冬嗣が、父・内麻呂の追善のために弘仁4年(813年)に創建した八角堂である。堂内には本尊である不空羂索観音坐像の他、四天王立像と法相六祖像を安置する。
ウィキペディアより引用
中金堂
2018年10月再建。9代目。創建当初の建物は藤原鎌足発願の釈迦三尊像を安置するための、寺の中心的な堂として銅3年(710年)の平城京遷都直後に造営が始められたと推定される。後に東金堂・西金堂が建てられてからは中近藤と呼ばれるようになった。創建以来たびたび焼失と再建を繰り返したが、江戸時代の享保2年(1717年)の火災による焼失後は1世紀以上再建されず、文政2年(1819年)、町屋の篤志家達の寄付によってようやく再建された。この文政再建の堂は仮堂で、規模も従前の堂より一回り以上小さかったが、国宝館の開館までは、仏像の多くを堂内に安置していた。創建1,300年となる2010年(平成22年)に中金堂再建工事が着工され、2018年(平成30年)10月に9代目となる中金堂が落慶した。
南大門跡
ウィキペディアより引用
五重塔
国宝。応永33年(1426年)再建。6代目。本瓦葺の三間五重塔婆である。1897年(明治30年)12月28日、「重要文化財」に相当))に指定。1952年(昭和27年)3月29日、国宝に指定されている。創建は天平2年(730年)で、光明皇后の発願によるものである。現存の塔は、応永33年(1426年)の再建であるが、高さは50.1メートルで、現存する日本の木造塔としては東寺五重塔に次いで高いものである。1902年(明治35年)に修理を終えて以来、2024年(令和5年)7月からおよそ120年ぶりに本格修理が始まっている。奈良市の建築制限により高層ビルが建てられない中、この五重塔は今もなお奈良市の中で最も高い建物というところが、歴史を重んずる奈良市らしいところですね。
東金道
国宝。応永22年(1415年)再建。5代目。平面は桁行七間、梁間四間。屋根は一重、寄棟造、本瓦葺である。1897年(明治30年)12月28日、「重要文化財」に指定。1952年(昭和27年)3月29日、国宝に指定されている。西国西国薬師四十九霊場第4番札所。東金堂は神亀3年(726年)、聖武天皇が伯母にあたる元正上皇の病気平癒を祈願し、薬師三尊像を安置する堂として創建された。東金堂はその後、応永18年(1411年)に五重塔と共に焼け、現在の建物は応永22年(1415年)の再建となる室町時代の建築である。様式は、唐招提寺金堂を参考にした天平様式。平面規模は、創建時の堂に準じている。堂内には以下の諸仏を安置する。
奈良公園のシカ
「奈良のシカ」は奈良で1300年以上前から生息する野生動物です。野生であるシカと人との生活が溶け込んで共存してきた歴史が評価され、国の天然記念物に指定されています。野生動物であるため記念な行動をとる可能性もありますが、見たところとても大人しく、人間慣れしていてかわいい動物ですね。
翌文治2年に周防国が東大寺造営料所に当てられてから復興事業は着々と進み、建久6年(1195)に大仏殿落慶(供養が行なわれた。こうした復興に伴い沈滞気味であった教学活動も活発になり、鎌倉時代には多くの学僧が輩出した。ところが永禄10年(1567)に至って三好・松永の乱が起こり、二月堂や法華堂、南大門や転害門、正倉院や鐘楼などわずかな建物を残して灰燼に帰した。江戸時代に入って公慶上人が諸国勧進と諸大名の協力を幕府に懇願して復興に取りかかり、その結果、大仏さまの開眼供養が元禄5年(1692)に、さらに大仏殿の落慶供養が宝永6年(1709)に行なわれた。以後、伽藍の整備は歴代の大勧進職によって続行された。明治時代になって起こった神仏分離令と寺社領没収は東大寺の存立に危機をもたらしたが、それでも明治・昭和時代の大仏殿の大修理をはじめ、諸伽藍の維持に努め、現在に至っている。
境内図
南大門
中門
八角燈籠
東大寺創建当初のもので、再度にわたる兵火にも難をまぬがれた。宝珠・笠・火袋・中台・竿・基壇からなり、火袋の大きいのが特色である。火袋の四面には音声菩薩(おんじょうぼさつ)が、扉の四面には雲中を走る四頭の獅子が、それぞれ菱格子の透し地に浮彫りされている。とりわけ音声菩薩の意匠はすばらしく、しなやかな体つき、楽器を執る腕先と胸のあいだの遠近感、風を受けてなびく天衣(てんね)など、立体表現が見事に果たされている。なお竿の部分には燃燈(ねんとう)の功徳などを説いた経典が抜粋して刻まれている。
尊像 像高14.98m/目長1.02m/耳長2.54m/顔長5.33m/鼻高0.50m/台座高3.05m
大仏さまは正しくは盧舎那(るしゃな)仏もしくは毘盧遮那(びるしゃな/ヴァイローチャナ)仏と言い、その意味は、知慧と慈悲の光明を遍く照し出されているほとけということである。インドのカピラ城に生まれた釈尊は29歳のときに出家し、以後6年間難行苦行を重ね、ついに尼連禅河(にれんぜんが)のほとりの菩提樹下で大いなる宗教体験を得られた。『大方広仏華厳経(だいほうこうぶつけごんきょう)』は時間と空間を超えたほとけとなられたその瞬間の釈尊のお姿を描いたお経で、偉大で、正しく、広大なほとけの世界を、菩薩のさまざまな実践の華によって飾ることを説いている。このお経によれば、鳥の声、花の色、水の流れ、雲の姿すべてが生きとし生けるものを救おうとされるビルシャナ仏の説法なのである。大仏尊像の台座の周りの蓮弁には「蓮華蔵世界」と呼ばれている毛彫図が刻まれているが、これはそうした『華厳経』の説く「悟りの世界」を絵に表わしたもので、われわれ一人ひとりの存在ばかりでなく、あらゆるものが無限のつながりと広がりをもち、これらすべてのものが、ビルシャナ仏の光明に包まれているという考えを美しく表現している。
大仏様は角度によって様々な表情があります。
鐘楼
ひときわ天空に聳える鐘楼は、鎌倉時代の東大寺復興に大きな足跡を残した重源上人を継ぎ、大勧進となった栄西禅師が承元年間(1207~11)に再建したもので、大仏様にやや禅宗様的要素を加味した豪放な建物である。重さ26.3tもある梵鐘(国宝)は東大寺創建当初のもので、鐘声の振幅は非常に長く、「奈良太郎」と愛称され、日本三名鐘のひとつに数えられている。
『東大寺要録』によれば、天平5年(733〜747)から天平19年までの創建と考えられている東大寺最古の建物である。不空羂索観音(ふくうけんさくかんのん)を本尊とするところから古くは羂索堂と呼ばれていたが、毎年3月に法華会(ほっけえ)が行なわれたことから、のちに法華堂と呼ばれるようになった。後方(左側・北側)の正堂と前方(右側・南側)の礼堂と二つの部分からなっており、当初は双堂形式の建物であったが、現在の礼堂部分は正治元年(1199)に重源上人によって新造されたものである。
東大寺HPより引用
四月堂(三昧堂)
かつて旧暦の4月に法華経に由来する法華三昧会が行なわれたことから、四月堂の通称がある。古くは普賢堂、普賢三昧堂とも呼ばれ、普賢菩薩が本尊だった時代もあり、堂内には小像ながら平安期の普賢菩薩騎象像を安置。法華経を信仰する者のところに、白い象に乗って現れる姿を表しており、御堂の由緒を偲ばせる。
奈良幸せ散歩さんより引用
名古屋に到着後昼食をとり金山での岩佐美咲さんのキャンペーンへ向かいました。
詳しくは「マッチ」発売前遠征3愛知g編をご覧ください。
待望の11thシングル「マッチ」2024年8月28日(水)発売!
ミュージックブース文化堂Xより引用