空・色・祭(tko_wtnbの日記) -19ページ目
遅ればせながら、明けましておめでとうございます。

年が明ける前、二〇一五年の大晦日は帰郷し、父母と三人で過ごすこのになりました。

二年前三年前は、大学時代の友人のイクミと金城で、高級な料亭に入り贅沢な料理を楽しみ、カウントダウン、初詣、初日の出を楽しむという豪遊をしていたのですが、それも二年でストップしました。

去年はいつもながらにして、家族で過ごすということに。

なにしろ、両親が「京都に行く」と言い、家を空けたのが三十日、私は実家に留まり犬の面倒を見ていました。

両親が帰ってきたのが三十一日の夜なので、その後は紅白やダウンタウンの『笑ってはいけないシリーズ』や格闘技のテレビ番組を観て過ごしました。

年明けのカウントダウンはテレビで、初日は自宅の側で、初詣はまだ行っていない状況です。

そういうわけもあり、今日もしくは明日、初詣に行きたいと考えています。

また、現在私が何処に居るかというと、渋谷に家を構えるシェアハウス・渋家に帰ってきました。

去年十二月中旬より再び住まわせてもらうことになりました。

なにしろ、職場が築地であるので山手線で三十分です。

仕事と私生活を両立しさえできれば、かなり充実した毎日を送れそうです。

今年一年がどうなるか楽しみです。

そういうわけもあり、今年の抱負というものを考えたいと思います。

今年の抱負は『打破』です。


だは【打破】( 名 )  スル

打ち破ること。障害をとりのぞくこと。 
                        ーーコトバンクからの引用

「人生五十年」という言い回しがあり、去年の年末は突然その言葉が浮かんで、ついFBでおもむろに、そうワンフレーズの投稿をしていました。

言わば、私にとって人生はあと十九年しかないのです。

その残りの十九年を有意義に、かつ生きていてよかったと悔いの残らぬものにするためにも、自分を打破しようということです。

人はいつでも変われるわけであって、変わらないのは変わることを恐れて、現在の自分に固執しようという衝動が働くからだと言います。

一昨年前辺りから流行りはじめた自己啓発の素・アドラーの二次文献には、そんなことが書かれてたのを覚えています。

そうした背景から、私は「打破」という言葉を抱負としたいと考えています。

人はいつでも変われるということを、身をもって実践したいと思います!

それでは、今年もよいお年を!

明けましておめでとうございます。

今回もiPhoneに保存されている写真を公開します。


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こちらはクマの縫いぐるみです。

何故、縫いぐるみが実家と言えば、犬の娯楽のためです。

そういうわけで、片腕が噛みちぎられて欠損しています。


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最近知ったのは、iPhoneにはスピーチ機能というものがあるということです。

文章を人工的な音声によって再生してくれます。

このため、目をつぶり寝ながらにして情報を得ることができるようになり、大変便利になりました。

昨夜は、pdf形式で転がっている論文を色々とiPhoneに読み上げてもらいました。

上はサイード。

他にも、華厳経、法華経、道元、ゲルノート・ベーメ、ライプニッツ…

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これはシェアハウスにて、住人のひとりが聴いていた音楽が良かったので、写真に保存させてもらいました。 

『Bob_Moses』というミュージシャンらしいです。

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新宿駅をはじめて上京した二十歳の頃から、頻繁に利用していますが、こんなものが以前から在ったかと疑問に思ったので撮影しました。

いつの間にできたのだ!?

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私が以前通っていた建築塾の棚に飾られていた本です。

気になったので、メモとして撮影しました。

『日本の美の理論』植田寿蔵著

妙に興味をそそられる題名です。



 哲学の分野から

 さらに哲学の分野では、惜しいことに最近急逝された廣松渉氏(一九三三-九四)の予言的な論説が私には強い印象として残っております。


それは、たとえばかれが東京大学を定年退官する直前の九四年三月に「朝日新聞」の文化欄で主張していたもので、そこには次のようにあります。




 新しい世界観、新しい価値観が求められている。


この動きも、欧米とりわけヨーロッパの知識人たちによって先駆的に準備されてきた。


だが、所詮(しょせん)彼らはヨーロッパ的な限界を免れていない。


混乱はもうしばらく続くことであろうが、新しい世界観や価値観は結局のところアジアから生まれ、それが世界を席巻することになろう。


日本の哲学屋としてこのことは断言してもよいと思う。


 では、どのような世界観が基調になるか?


 これはまだ予測の段階だが、次のことまでは確実に言えるであろう。


それはヨーロッパの、否、大乗仏教の一部などごく少数の例外を除いて、これまで主流であった「実体主義」に代わって「関係主義」が基調になることである。


 ----実体主義と言っても、質料実体主義もあれば形相実体主義もあり、アトム(原子)実体主義もあるし、社会とは名目のみで実体は諸個人だけとする社会唯名論もあれば、社会こそが実体で諸個人は肢節にすぎないという社会有機体論もある。


が、実体こそが真に存在するもので、関係はたかだか第二次的な存在にすぎないと見なす点で共通している。


 ----これに対して、現代数学や現代物理学によって準備され、構造論的発想で主流になってきた関係主義では、関係こそを第一次的存在とみなすようになってきている。


しかしながら、主観的なものと客観的なものとを分断したうえで、客観の側における関係の第一次性を主張する域をいくばくも出ていない。


更に一歩を進めて、主観と客観との分断を止揚しなければなるまい。


 私としては、そのことを「意識対象-意識内容-意識作用」の三項図式の克服と「事的世界観」と呼んでいるのだが、私の言い方の当否は別として、物的世界像から事的世界観への推転が世紀末の大きな流れであることは確かだと思われる。


(一九九四年三月十六日、「朝日新聞」夕刊)


http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/kegon02.html