論破することの無意味さ。

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皆さん、オリンピック、観ていますか?

私は観ていません。

 

別にオリンピックに出場する選手たちが悪いわけではなく、

スポーツというものが嫌いなわけでもありません。

 

ただ、回を追うごとに「興行化」していく祭典の様相と、

スポーツにかけるアスリートたちの一心不乱な姿を

政治利用しようとする人々というのに嫌気がさしているので、

しらけているというのは、本当の気持ちです。

 

もっとスポーツの本質を大切にして欲しいですね。

 

 

さて、平昌で熱戦が繰り広げられているその裏で、

日本の国会でも、非常に大切な議論がなされています。

 

なされているはずです。

 

しかし、そことも距離を置いています。

連日のように「おかしなこと」が起こるわけですが、

私はそういう情報に心をざわざわさせたくないのです。

 

決して無関心なわけではありません。

周りに情報源になってくださる人がたくさんいますから、

リアルタイムで一喜一憂するのではなく、

あらかた情報が出揃ってから、

心を落ち着かせて向き合いたいのです。

 

批判的な意味ではなく、

リアルタイムで「怒っている人」がたくさんいらっしゃるので、

私も一緒に怒る人になってはいけないと思っているのです。

 

これは、あくまでも役割論です。

私も情報に向き合えば怒ってしまうのがわかっていますから、

せっかくすでに怒ってくださっている方がいるので、

私はそこに分析を加えたいのです。少し冷静に。

 

 

国会でのやりとりをあとからYouTubeなどでチェックしようとすると、

ネトウヨと呼ばれる人々なのでしょうか、

非常に口汚い言い方でコメントを書いています。

 

面白いもので、同じ動画でも、

どっちの側から見ているかで、解釈がちがっていたりしますね。

 

本当に人間というのは、主観でしかものが見られない

了見の狭い生き物なのだな、と感じてしまいます。

もちろん、私も含めて。

 

そういう中でよく見るフレーズが、「論破」です。

 

片側の人が何かを発言し、

相手がたがスムーズに答えられなかったときなどに、

「論破した!」とか「論破された」とか

まるで自分が手柄を立てかのように言っています。

 

けれど、私は思うのです。

論破ほど無駄なものはないと。

 

 

ここでひとつ質問なのですが、

あなたは誰かに論破されたことはありますか?

 

私は記憶する限り、ありません。

 

誰かとの議論の結果、その人の意見を理解したり

それに納得できたので自分の考えが変わったりしたことはあります。

 

でも、それで「論破された」とは思っていません。

 

論破というのは、言われている方の気持ちは完全にお構いなしで、

言っている方が何かを言い放って勝手に議論を終わらせている、

というようなイメージがあります。

 

だから言われた側としては、

たとえその場で上手に返答ができなかったとしても、

それはその場で一時的に頭が働かなくなったり、

材料が足りなくなっただけで、

逆に「なにくそ」という気持ちになって言い返す準備をします。

 

第2ラウンドに入ろうとする、という意味です。

 

ということは、それって、実際にはまったく「論破」ではないですよね。

相手を納得させていないのですから。

 

もしそういうことを「論破」だというなら、

逆に相手の対抗意識をより強めさせるだけなので、

議論としては完全にマイナスなことだと思うのです。

 

ちがうでしょうか。

 

 

議論の理想形とは、互いが相手の意見を聞き、

なぜそう思うのか、なぜそういう考えに至ったのかを知り、

その上で、互いの共通点や妥協点を見つけることではないでしょうか?

 

自分の思い通りにはならないとしても、

その結果に納得がいく、という状況でしょうか。

 

ということは、相手が

「本当は嫌なのだけど、仕方なく同意する」という形は

決して議論ではないし、その人は必ずいつか反撃してやろうと

タイミングを狙うようになるはずです。

 

もしそうだとすると、

世の中で「論破」と言われていることは、まったく無駄だと思うのです。

だって論破してもしなくても、結果には何も影響がないからです。

 

例えば国会で、ぐうの音も出ないほど安倍晋三さんを追い詰めたとします。

 

さて、それで一体何になるでしょうか?

 

その場では一時的にやっつけられたような見え方になるかも知れません。

国会中継を見ていた国民に中にも溜飲が下がる人がいるでしょう。

 

それでもきっと、

安倍晋三さんは何も考えを変えないことでしょう。

 

決めたことは変えないでしょうし、質疑で何が起ころうと、

最終的に自分の思い通りに事が決まればいいと思っているだけです。

 

ということは、国会での議論が形骸化し、

国会でいくら話し合ってもまったく意味がない、

という現実をさらすだけかも知れません。

 

いや、民意を形成する、国民感情を盛り上げるという意味では、

国会での「論破」というパフォーマンスを

国民に見せつける意義は、ちゃんとあると思います。


が、国会で話し合っているわけではない我々は、

少なくとも隣にいる人から意味のある結果を引き出すためには、

いたずらに論破することではない、と言えると思うのです。

 

これはたぶん、日常のコミュニケーションでも

言えるのではないでしょうか。

 

 

いま、あなたの両手をグーにして、

その拳を互いに向き合うように合わせて見てください。

 

正面衝突です。

 

論破とは、こうやって意見と意見が正面衝突して、

どちらかが大破した、というだけの話です。

しかし、それは他方の正しさが証明されたことではなく、

ただ遺恨を残しているに過ぎないのです。

 

大破した方は忘れがたい屈辱感を味わっていますから。

 

では今度は、両手の拳の親指と親指を合わせて見てください。

隣り合って並んでいる状態です。

 

正面衝突に対して、並走とでもいいましょうか。

 

こうやって隣によりそうように存在された方が、

人は相手の意見に耳を傾けやすくなるものです。

 

もちろん、これは単なる「スキル」の話であって、

必ずしも相手と同じ意見にならねばならない、

ということではありません。

そうではなく、相手の言葉をちゃんと聞いてみるということです。

 

腹が立とうが、納得できなかろうが、まずは聞いてみる。

そして相手に

「お?こいつはなんかただ反対してくるやつとちがうかも?」と

思ってもらう。

 

そういう関係にある方が、絶対に話し合いは

有効になると思うのです。

 

もちろん、これは誰にとってもとても難しいことです。

 

ただ、私は本当にこの世の中に変わって欲しいと思っています。

 

そのためには、平行線の言い合いをしていることは

とても無駄なことに感じるのです。

 

意見がちがう人や、無関心の人と、もっともっとちゃんと話し合って、

どうして私がこう思うに至ったのかを知って欲しいし、

そのためにはただ正面衝突するだけでは難しいとわかっています。

 

「正しいかも知れないど、お前キライ」と言われたらおしまいですから。

 

人を論破したところで、意味などないのです。

目的は、その人の中に眠っているスイッチを「オン」にすること。

 

しかも、そのスイッチをオンにできるのは、

その人、本人だけなのです。