ポツダム宣言を読んでみた。

昨年、安保法制を巡る国会の論戦の中で、
我が国の首相である安倍晋三さんが、
「ポツダム宣言」を読んだことがない、ということが明らかになり、
話題になりました。

そういう私もポツダム宣言の中身までは読んだことがなかったので、
読んでみることにしました。
以前から書店の棚で見かけて気になっていた本、
「ポツダム宣言を読んだことがありますか」です。

この本に出会う前からずっと思っていたことがあります。
それは、日本人は、日本の近代史を知らない、ということです。
今を生きる私たちにとって重要な歴史は
縄文時代や鎌倉時代ではなく、少なくとも明治以降から
今に至る近代史だと思います。
けれど、学校教育の中では、あまりに中世の歴史に時間を割き過ぎているのか、
近代の歴史に関しては駆け足でサラリとさらう程度で終わってしまいます。

そのような教育が、実は今の日本人の誤解の原因になっていると、
私は思っています。

そう思うようになったのは、ある重要な出来事に気づいたときからです。

何度も書いていることですが、今の世界の平和を維持するための
中心的な機関であり、誰もが国際関係の判断基準の中心に据える「国連」です。
正式には「国際連合」ですが、その名前は、英語では「United Nations」と言います。
人道支援活動などの映像で、「UN」と書かれたクルマやヘルメットを
目にしたことがあるでしょう。

国連が「United Nations」であることは、何となく知っていました。

話が一瞬飛びますが、皆さんは第二次世界大戦について、どれくらい知っているでしょうか?
あの戦争は、世界がふたつの陣営に分かれて戦っていました。
ドイツ・イタリア・日本の三国同盟と、それ以外の国の連合国です。
映画などで、日本が戦っていた相手は「連合軍」と呼ばれていたのはご存知でしょう。

その連合軍が、英語では「United Nations」と言うのです。

「国連」=「連合軍」

その事実を知ったときに、世の中のいろんな現象の見え方が、ガラリと変わったのです。
日本人は戦前は「連合軍」、戦後、「国連」と呼び変えているので、別のものだと思ってしまいがちですが、同じものなんですよね。
とても違和感のある言い方を敢えてすれば、第二次世界大戦のときに戦っていた相手が「国連」なのであって、我々はその国連に「敗戦国」のひとつとして参加を許されているのです。

三国同盟は、連合軍側からは「枢軸国」と呼ばれているわけですが、枢軸国は国連の中で「敵国条項」という条件がつけられ、ハンデが追わされている存在です。が、枢軸国のうちイタリアもドイツも、すでに敵国条項が外されているのに対して、日本だけは外されないままなのです。

つまり国際的に見た場合、日本は先の大戦に敗戦した状況からまだ何も変わっておらず、日本の戦後70年の歴史は、ずっと「敗戦国」の歴史なのです。
そのことをどうして学校で教えないのか・・・。

これは、自虐史でもなんでもないのです。

私は、近頃よく、今を生きる日本人の性質について、大いなる失望感を持ちつつ考えることがあるのですが、日本人は本気で学ばない、本気で反省しない、とても手に負えない無責任な民族であるのだ、ということです。

戦後70年経ってなお、日本人がアジアの同胞である中国人や朝鮮人を無条件に敵視しているのは、いったいなぜなのでしょう?
その心の奥に、私は「大東亜共栄圏」の名の下にアジアの人々を蹂躙し、支配しようとしたのと同じ選民意識があるように思うのです。日本は神の国であり、特別なのだ。日本はアジアのその他の国とはちがう優れた国なのだ、という意識です。

日本人の多くは、実は先の戦争を本気で反省せず、戦争をしたことへの罪悪ではなく、「戦争に負けたこと」に対しての悔しさを以て、戦後の歴史を解釈してきたのだと思います。
そういう考え方の人々は、「敗戦を認めない」気持ちを持っている。

だから執拗に「神の国」に戻ろうとするし、先の戦争の正当性をいつまでも主張し、アジアを差別しつづけるのでしょう。
原発から手を引かないのも、端的に言ってしまえば「核武装への可能性を残す」ことだけが目的だし、戦没者の慰霊施設でもない靖国神社に公人が参拝するのも、すべて「負けたことが悪いのだ」という解釈があるからです。

しかし、70年前、日本が負けたことは変えられない事実であり、戦後の歴史は敗戦を前提に構築されています。そして「敗戦国である」という事実は、国際的にずっとそのままつづいている現実であり、我々が勝手に忘れようと、なかったことにしようと、国際社会はそのような解釈は受け入れていないのです。

その現実を変える方法は、たった一つしかありません。
もういちど戦争をして、今度は戦勝国になることです。

戦争が終わって新しい国際秩序が再構築される際に、戦勝国側の陣営につくことで「世界の一流国」の一角を占めること。
これが狙いなのかも知れません。

世界を支配している5つの国、というのがあって、それを「国連常任理事国」と言いますが、それらの国は核保有国でもあります。常任理事国は、自らは核武装していながら「核拡散防止条約」を結び、自分たち以外は核武装できないようにしています。

その5つの国を一流の国、あるいは世界を支配する国、と言うことは、ある意味できるのかも知れません。

明治以降の日本人は、メンツが大好きです。もちろん明治の時期というのは国際的には「帝国主義」の時代であって、日本以外のアジアの国々は軒並み西欧列強の植民地となっていました。
そんなとき、日本は「支配されるのは嫌だ」と思い、アジアの国々とは違う道を歩もうとしたわけですが、単に「支配されない」ということではなく、西欧の列強のように「弱い国を支配する国」になりたいと思ったわけです。

「支配されないように」と言えば「国防」ですが、「あんなふうに俺たちも支配者の一角を占めたい」と思ったなら、それは「侵略」です。日本人のメンタリティの奥底に、「アジアの解放」ではなく、「西欧ではない別のアジアの支配者になる」という狙いがあったことは、間違いのなかったことであり、ポツダム宣言には、そのような思想が「無責任」で「馬鹿げたものである」と書かれています。

日本はそういう国であったので、それを止めることを条件に戦争を終わらせる、というのがポツダム宣言の主旨です。
そして、その主旨は、今も生きたままです。日本人が「俺たちは戦争を知らない世代だ」などということを理由に、勝手に変えられるものではない。

日本人に必要なのは、ちゃんと敗戦を受け入れ、負けたものとしてどうやって誇り高く生きるのか、ということをしっかり見極め、前に進むことです。
それをやらないからこそ、今でも敵国条項があるのだと思うのです。

今でもあの戦争を「大東亜戦争」と呼びたい人がいる。それは自由です。
が、我々は戦争という手段に打って出て、それに負けたのです。
勝負に負けた以上、負けたことを受け入れるのは当たり前のことです。

リターンを期待して勝負に出たのだから、失敗したときのリスクは引き受けるべきです。

先日、YouTubeで見たドキュメントに、こんなシーンがありました。
原発に反対しつづけた「熊取6人組」のドキュメントなのですが、
福島の事故が起きてしまった後、6人組の一人、今中哲二さんが、市民に対してこんなことを言います。
「放射能汚染に対していかに立ち向かって、いかに耐えていくか」
そういうと市民が言うのです。
「放射線に耐えられるわけないじゃないですか」
今中さんはこう返します。
「そういう時代に入ったのです」と。

私は今中さんの意見に賛成です。

今までずっと原発をなくすことを提言しつづけた人に対して、それを実行せず、原発を容認し、その電気を使ってきた市民が、事故が起こってしまった後から「どうすればいいのか?」と聞くのもおかしいし、ましてや「耐えられるはずないじゃないですか」というのはおかしい。

そういうリスクを受け入れることを前提にしなければ、原発は動かせないものなのだ、ということを、ずっとずっと訴えてきたのだから。

そういうことを現実的に想像し、リスクを引き受ける覚悟がないから、こんなことが起きてしまったのだと思うのです。

ついに起きてしまったならば、それを受け入れて、被害を最小限にするしかない。起きてしまったことをなかったことにはできない。日本は汚染大国になったのだ、ということを、スタートラインにしなければならない。
けれど、それを受け入れたがらない。忘れたがる。

戦争も原発も、同じだと思うのです。

都合の悪いことは受け入れない、という日本人の性質は、現代の日本の社会問題のほぼすべての原因であるように、私には思えるのです。

起きたこと、起こしてしまったことをしっかり受け入れ、「その上で、どうすればいいのか」を考えること。
そのために「どこで誤った判断をしてしまったのか」を分析し、二度と同じ間違いを繰り替えさないこと。
それを怠ってきたために、日本人は歴史上類を見ないほどの「無責任集団」になったということです。

私たちが見て見ぬ振りをしたすべてのことは、私たち自身に返ってきます。
私たち自身ならまだしも、罪もない未来の世代に、その報いを受けさせる可能性もあります。

今を生きる私たちが取り戻すべきなのは、あたりまえの責任感なのだと思うのです。