会社化する国、日本。

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今、決定的に世の中が間違えていることがあります。

それは、国家を含めたすべての組織が営利企業化していることです。

それは、日本人の価値基準のすべてが「行き過ぎた資本主義」に
完全に支配されていることが原因でしょう。

本当は「組織の在り方」の種類はたくさんあるはずなのです。
けれども誰もが「営利企業的な思考」しか持てなくなってしまっている。

私は小泉政権時に声高に叫ばれた「郵政民営化」の頃から、
そんなことはすべきではないと思っていました。

世の中のほとんどの人が洗脳されているかのように
資本主義について誤ったことを信じています。
それは「どんなことでも市場の論理にさらせば、
適正な結果になる」という幻想です。

端的に言ってしまえば、
「国が運営しているより、民営化した方がいい」という幻想です。
もちろん、そういう結果になりやすい分野のものもあるでしょう。
しかし、「利益を出す」という目的意識しか持たない
「市場の原理」や「企業の論理」にさらせば、
本来の存在意義を失ってしまうものは
ものすごくたくさんあるのです。

この日本は、郵便局があるおかげで、日本のどこからでも、
どこへでも、切手一枚でハガキを送ることができる。
それは素晴らしいサービスなのです。
けれどそれが民間の手に委ねられると、
「それは採算が合うのか?」という尺度に
照らし合されることになる。

儲からないことは、しない。
そんな当たり前の企業の論理によって、高品質な国の福祉が
消えてなくなってしまう可能性があるのです。

今、麻生太郎が日本の水道局を海外の企業に
売り飛ばそうとしているという話を聞きます。
水は命そのものであり、水を売り渡すことは、
日本人の命を金に換えて売り渡す行為です。

自分の命を維持するために、高いカネを払わなければならない。
それを払えなければ、死ぬしかない。

そんな生命の普遍性に関わることは絶対に平等でなければならず
みんなに平等のサービスを与えるべき事柄に関しては、
決して民営化・企業化すべきではない。

その最たるものが、「国家」そのものだと私は思っています。

営利企業である「会社」というものは、
利益を出すことを存在の目的にしています。
ですから、「利益を出せることと出せないこと」なら
出せることを選択するのが正しいですし、
まぁまぁ利益が出せることと、たくさん利益が出せることなら
たくさん出せる方を選ぶのが正しいのです。

正しさのベクトルは、ひとつです。シンプルです。
「1円でも多く稼ぐこと」です。

企業を構成する社員に関しても、
よりたくさん稼いでくる社員が優秀な社員であり、
あまり稼いでこない社員はダメな社員ということになります。

ここでも正しさのベクトルはひとつなのです。

あんまり稼ぎがない社員に関しては、
「クビ」という判断もあるでしょう。
年を取って働けなくなったら、定年にもなります。
その判断ややり方を「まちがいだ」とは
決して言えないのが企業です。

しかし、国民は、日本という企業の社員ではないのです。

世の中を見回してみると、人は誰もが
企業人に向いてるわけではありません。

誰もが「金を稼ぐことの達人」にはなれない。

企業では「役に立たちそうにない人材」が、
実際にたくさん存在するのが世の中です。

そういう、「ある物差しでは役に立たないとされる人」が、
数えきれないほど存在して、社会とか、国、というのは
構成されている。

けれど、あるひとつの物差しでは「ダメな人」が、
別の物差しなら「素晴らしい人」である可能性はあって、
そのような人々が様々な価値観の中で共に生きているのが
多様性のある社会ということになると思います。

会社では冴えない男性社員が、
家では家族を明るく照らすパパかも知れない。

その人の稼ぎが少ないのは、相手を思いやる気持ちが
強過ぎるからなのかも知れない。

企業の論理では「ダメな人」だったとしても、
他の場所で誰かを幸せにしている
掛け替えのない人なのかも知れないのです。

そういうすべての人が、平等に生きる価値を認められること。
それこそが国家が約束すべきことなのです。

どんな人が、どのように素晴らしい人なのか。

その人の人間としての価値というものは、
画一的な企業的な視点だけでは到底判断出来ないのですから。

様々な性格、特質を持った人々を広く抱擁し、
国民に決して上下をつけることなく、
「みんな等しく、生きていていいのだ」という基本コンセプトを
すべての国民に発していくことが、国の役割です。

しかし、今、日本という国は、まるで営利企業のような価値感で、
国民を社員のように扱おうとしています。
国民に上下をつけ、苦しい人を、より苦しめています。
多くのことを命令し、これでもか、というほどお金を搾り取り、
満足に生産できない者には「早く死ね」と公言する。

人は、カネを稼ぐために生きているのではないのです。
お金や経済というものは、
人が暮らしやすくなるための「道具」でしかないはずです。

本来、そんな道具がなくても人間は生きていけるはずであって、
それがなければ生きられないという感覚は、
実は信じ込まされているに過ぎない妄想です。

企業とは、とても哀れな存在です。
お金のために、人としての大義を捨て、
正しくないとわかりながらも、その道を走りつづけねばならない。

そもそも、コスト意識を持った企業が大量生産で作り出す製品が、
人の心や体にとって、いいものであるはずがない。
近頃、私はそんなふうに思っています。

企業は、ただ売れれば良いのです。
それを食べて、飲んで、のちのちその人が死んでしまっても、
いま、利益が上げられれば、それは正しい。

それが市場経済というものです。

でも、国がそれをやってはいけない。
国が会社化していったら、
その先にあるのは間違いなく国家の崩壊です。

この国はいま、株式会社 日本になりつつあります。
いや、すでになってしまっているのかも知れませんね。

経営が苦しくなったら、外資系に身売りするかも知れません。