=3489=身延山久遠寺 | 老コンサルの残日録

=3489=身延山久遠寺

<4日間電車旅>の3日目は柏崎-直江津-糸魚川-松本-甲府という長距離移動。北陸新幹線が開通したら、新幹線が開通した所はどこでもそうであるように普通電車での移動が不便になった。直江津-糸魚川は<日本海ヒスイライン>という第三セクターになり、直江津での乗換え時間は5分で<ヒスイライン>の遠いホームまで階段を走り登り走り降り走って走ってやっと…、糸魚川での大糸線への乗換時間は3分でまたまたダッシュ…、酷すぎる。

 

大糸線は大いに関心があったのに縁が薄かった。北方沿線は50年も前に白馬連峰を縦走したとき、沿線中ごろの信濃大町あたりは20年ほど前に<黒四-立山>を歩いたとき、南方沿線は5年ほど前に<安曇野ちひろ美術館>を尋ねた時と35年ほど前に家族で上高地へ来たついでに穂高町に寄ったとき、魅力を感じていた割に4回しか縁が無かった。

 

車窓からの紅葉

同上

同上

同上

標高が上るに従い紅黄が増す

清流は翡翠で有名な姫川の上流

南小谷駅は栂池高原の玄関口

 

南小谷駅が終点かつ始発で乗換え時間に一息入れ、乗り飽き・乗り疲れ・一服したい・温かい食事…が目的で信濃大町で途中下車、山本周五郎の<虚空遍歴>に読みふけり予定していた穂高で降り損ない、松本で乗換て甲府へ。

 

ホテルの裏の2年ほどまえ<ミレー>を見に山梨県立美術館を尋ねた時に寄ったオミセで甲州名物のホートーを頼んだら相変わらず注文してから出て来るまで30分、山本周五郎を読みながら心しずかに…。なに、時間は幾らでもある。

 

4日目は甲府を9時過ぎの身延線に乗り日蓮上人開山の日蓮宗総本山<身延山久遠寺>を参るべく身延で下車。結婚して間もない頃だから44年ほど前だろう、家内と新宿-甲府を経由して来たことがある。今でも家内と「あそこの蕎麦はマズかったね」と話す「あそこ」とは久遠寺山門下のバス停のそばの蕎麦屋のこと、「国内にあんなにマズい蕎麦を出す店は他にない」は家内と同意見。

 

「運転手さん、久遠寺はたぶん44年振り、少しは変わったかねえ?」「44年振りですか!上人さまも喜んで下さいますよ。前は五重塔は無かったでしょう」「そう、五重塔ができたんだ!ところで、山門の手前のバス停のところの蕎麦屋さん、まだありますか?」「ありますよ、どうしてです?」「…」。

 

富士川を渡った所の総門を通って山門(三門:空・無相・無願の三解脱)へ。

<登り切れば涅槃(ねはん)に達する>という参道の287段の石段は<菩提梯(ぼだいてい)>は蹴上が踏面と殆ど同じの極めて急な石段、前に来たとき降る途中で家内が「膝が笑うって聞いた事があったけど、こういうのを言うんですね、初めて経験」と言ったのを思い出す。

 

広大な久遠寺境内

案内図の左の方に日蓮がこの地に至り久遠寺を建立するまで住んだと言う住居跡があるらしい

身延山久遠寺の山門(三門)   <身延山>の扁額がある

山門を入ると懐かしい

菩提梯が見える

287段が目前に

久遠寺縁起

安房小湊に生まれ比叡山で修業を積んだ日蓮は山を降り法華経を布教、布教活動の激しさに古来の宗教と衝突を繰り返し遂には佐渡に遠流、文永11年5月17日この地(甲斐国波木井郷)に至り土地の豪族・波木井氏が帰依し…。

 

女坂?

男坂?

それとも287段を直登?

登り切ると久遠寺本堂には

平成33年2月日蓮大聖人御降誕800年

平成35年6月身延山開山開基750年

の案内

斜めから本堂

および奥の方

棲神閣祖師堂

左の仏殿と大客殿

鐘楼と五重塔

本堂と祖師堂を反対側から

広大な境内案内

御真骨堂拝殿

仏殿

と大客殿…

ロープウェイで登れる奥の院はパスした。

 

今年は狙った訳ではないが、真言宗総本山・高野山金剛峰寺、天台宗総本山・比叡山延暦寺、禅曹洞宗総本山永平寺、ここ日蓮宗総本山・身延山久遠寺の4総本山を歩いた。

身延-富士-熱海-品川は全て鈍行で帰京、やや疲れたがいい旅だった。気が付けばシニアに限らず若者の独り電車旅が多いようだ。

 

昨日は都内クライアントの社長と幹部社員で<第3回山城ツアー>のガイド、群馬の箕輪城と共に日本百名城の埼玉の鉢形城を案内したら風邪の気が抜けたらしい。やはり歩くに限る。