愛することの原型は
幼い時に誰かに懐くという事
じゃないかな
子供でも
物心がつくと
好き嫌いを選別するし
遊んでくれる
祖父母や近所の人だったり
保育園の保育士あたりに
幼い子供は懐くだろう
愛された実感を持たずに
この年齢まで
過ごして来てしまったからか
愛し方や
愛するとはどんな感覚かも
分からない
自分が幼い頃に
誰かに懐いた記憶もない
温もりが欲しくて
どうしょうもない気持ちの時は
牛小屋へ行って
牛に抱きついていた
ああでも
百頭近くいる牛の中でも
どの牛でも良いわけでなく
いつも同じ牛に
抱きついていたなぁ
なぜか牛には
外国語の名前がつけられていて
どこの国の言葉かも
分からないけれど
今でもその牛の名前は
覚えている
振り返って考えると
誰かに懐くという感覚は
あの牛に抱きついて
落ち着いた気持ちに
なれる感覚なのかもしれない
幼い頃に
動物に感情移入したから
人が苦手になったのかなぁ
牛は愛し方までは
教えてくれなかったしなぁ
愛が何か分からないから
求めてもいないし
必要だとも思っていない
年齢を重ねるに連れて
なくても困らない事を知り
でも興味はあるのか
ときどき考えたりはする
人になりきれなかった
半端な存在だから
人を寄せ付けないし
近寄らない
だからせめて自分だけは
自分を大切にしようと思う
今日この頃
歳を重ねる事に
自分が
自分の過ごして来た時間が
物凄く愛おしく感じるようになった
良い思い出も
辛い出来事も
その瞬間に思った事や
行動が愛おしくてたまらない
自分の人生には
自分しかいなかった
感覚を共有できる相手には
巡り会えなかったけれど
いつも自分がそばにいた
今の自分と
過去の一瞬一瞬の自分は
別物で
その過去の自分すべてが
語りかけてくる感覚
その感覚が
増えるたびに
不安や恐怖が小さくなった
自分にとって
他人は脅してくる存在だから
味方は過去の自分しかいなかった
体験から学び
克服するたびに自由が増えた
何を信じて愛するのか
感覚では分からないけれど
きっと自分だけを見つめながら
暮らしてきたんだと思うから
それが自分だと思える何かに
出会った時
もうすでに愛はそこにあるんだろう
愛とは宇宙
常にその中にいるから
見えないし感じない
でもいつでも存在しているし
感じている
だからこそ今日も生きている
わからなければそれで良い
それでも明日を生きていける