ぼんやり過ごした1日の中で
ふと思ったことがあります。
結論から言えば
“お酒と勉強は嗜む程度に”
です。

本来、庶民的な学問というのは
暇を持て余した人々が
『じゃあ勉強してみるか』
的なスタンスで
始まったと聞きました。
勉強とは余暇を埋めるための
手段であったのです。
しかし今はどうでしょう?
勉強をするために
余暇をつぶしてはその時間に当てる。
勉強が仕事
なんて言われる受験生に余暇など
ないんです。
つまり、勉強が目的になったんです。
手段と目的
これが今は完全に逆転しました。
自主的な勉強、義務的な勉強
結局、机に向かうことの行為は
同じでもモチベーションは
全く違うと思います
たとえばの話です。
もし勉強があくまでも
自主的なものであると定義された
世界であったとしたら、
我々は興味のある
洋服やら化粧品やら
各々の気の赴くまま
一通り調べつくすでしょう。
洋服はどこのブランドがいいとか
マスカラはこれに限るとか
そうして、これ以上の知識はいらない
と思うほどに好きなものを
学んだら次はもっと高次元のものへ
興味がわくと思うんです。
この洋服はどうやって
私の手まで届くんだろう
このマスカラは誰がどう勧めて
商品化したものなんだろう
今の我々にはあまり自然には
思わないことかもしれないですが
もし、時間にもっと余裕があったならば
絶対に考えないとは
言い切れないと思います。
そうして自然に
【流通・経営】
を学ぶ道は作られるんです
景気を考えるために数学
プレゼンを成功させるために国語
そういう技能が必要なんだ
ってわかったときに
初めて
“よし勉強をしよう”
ってなると思うんです。
これは勉強が手段であって
目的ではないからです
これはあくまでも
一つの例に過ぎないですが。

じゃあ受験って何なんだろう
とも思います。
マイナスに考えるなら
教育者が学力に差のついた学生の
足並みをそろえるためのもの
と考えられます
受験というフィルターを通して
多少、偏差値とやらの差を
中堅・難関校を目指させることにより
より縮めることができます
ばらばらな学力の人々が存在するよりも
ある程度画一的な方が
日本も将来的教育の指針が
とりやすいですから。
しかし受験はプラスでもあるんです。
多少自分の学力が世間より下の
レベルに位置していても
受験という機会を活かして
上に行くことができるからです。
したがって受験といいシステム
そのものが悪いわけではありません。

では戻りますが
何のための勉強なのかです
それ自体目的と化した我々の中には
より良い大学に行くため
と答える人も少なくないでしょう
ただ明確な将来的目標のない人にとって
勉強は苦痛でなりません
今更
『生活で使うことのない2次関数を何で学ばなきゃいけないの』
とは聞きません。
東大卒の文部科学省の人が
“やった方がいい”
って決めたから学んでるんです。
ただその苦痛を和らげたい
と切実に思っていませんか。
では私たちにできること
とは何でしょう。
それは勉強というものを
本来の姿に戻してやることです
つまりそれを手段にかえること、
余暇を埋めるための
一道具と見なすわけです。
“やりたいことは一通りやった。
よし、次は勉強だ”
このスタンスを持てば
勉強というものも
以前ほどの苦痛を伴わないはずです。

“お酒と勉強は嗜む程度に”
という結論です。

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という
勉強したくないことから
それっぽい理論で言い訳をし
今日は1日
ゲームしたり
テレビみてました。
明日からは現実と
向き合おうと思います。

目標はなくとも
今は勉強せにゃならんと
思います