7月も間近になってから、ようやく東京も梅雨入りしました。月初は余談から。私はノート型PCで、このブログの原稿を書いています。老眼ですし。一方、先日アメブロの機能でアクセス分析というのを覗いてみたら、拙ブログへのアクセス数のうち、50%以上がスマートフォンになっています。

 

そこで初めて自分のiPhoneで本ブログを見てみたら、PCの画面と大きく異なっているので驚きました。レイアウトも行数も違うし、広告が多い(特にトップページの上にいきなり広告)。ただでさえ長文で誤字脱字も多いのに、更にPC仕様のブログをスマフォで読むのは大変だろうなあと思います。ご苦労をおかけいたしております。

 

 

 

今回は個人の史料から離れ、戦史叢書を参照する。本ブログでは5月ごろ、千早正隆著「戦果ゼロ・マリアナ沖海戦」を参照し、長きにわたりマリアナが陸上戦力の空白地帯であったという著者の指摘を引用している。

 

いわゆる絶対国防圏が制定されてから約三か月後、昭和十九年(1944年)1月初頭の「マリアナ方面海軍部隊」の状況が、陸軍の戦史叢書(6)に載っている。年が明けても海軍部隊しか無かったのだ。

 

 

主力はサイパンの第五特別根拠地隊(長、辻村武久少将)。その他の四部隊の中に、すでに空挺団の横一特が進出している。各隊の主要任務は哨戒索敵、陸上警備、海上保護等々。敵上陸前のツラギやガダルカナルと大差ないものだ。

 

ただしマリアナ諸島はグアムを除き、国際連盟が認めた日本の領地だった。敵がサイパンに上陸して居座ったら侵略戦争になるのだが、この点もツラギやガダルカナルと同様でお互いさま。それより現地の人たちには大変なご迷惑をおかけしている。

 

 

陸軍が動いたのは、既述の第十三師団先遣隊(296名)のマリアナ派遣からで、1月11日にサイパンに着いた。ところが陸軍は「第一作戦」を優先し、第十三師団の本隊は中国に留め置かれた。この「第一作戦」とは大陸打通作戦の正式名であり、この時点の陸軍が何を優先していたかを明確に物語っている。

 

このため先遣隊は、翌2月に進出した第二十九師団の指揮下に入った。同月、新設の第三十一軍の司令部がサイパンに置かれた。先述のとおり二十九師の三個連隊は、師団司令部と第三十八連隊がグアム、第五十連隊がテニアンの守備担当となる。

 

 

肝腎のサイパンは、崎戸丸の海難で兵力が落ちた第十八連隊が、当面海軍部隊と共に防備にあたり、続いて派遣された既出の第一派遣隊がそれに加わる。第一派遣隊は5月になってそれまでに進出してきた諸部隊と併せ、「独立混成第四十七旅団」(長、岡芳郎大佐)に改編された。第三十一軍の直轄部隊となる。別名「岡兵団」。

 

戦史叢書の解説をかみくだいていえば、部隊数が多くて指揮命令系統が複雑になってしまうので、師団とは別に(独立)、砲兵ほか各兵科の部隊も含めて一つにまとめた(混成)結果としての旅団(建制の旅団は師団の下、連隊の上の規模・位置)。

 

 

  

花菖蒲

 

 

私は地理も好きなので、どうしても鎮台さん以来の編成地を有する師団・連隊にばかり目がいってしまうのが反省点。郷土という中心点を持たない陸軍部隊は、推測だが戦友会や部隊史や慰霊碑なども少ないのではないか。そういう意味では、本ブログの伯父の戦争調べは、情報量に恵まれているほうだろう。文句ばかりではいけない。

 

独立混成第四十七旅団は、第三十一軍の戦闘序列において、「北部マリアナ地区」(サイパン、テニアン、ロタ、パガンなど)に配置され、第四十三師団に次ぐ第二位に置かれている。

 

同旅団の構成をみると、歩兵四コ大隊のほかに直轄の旅団砲兵隊、旅団工兵隊。各歩兵大隊に機関銃中隊、歩兵砲および速射砲の小隊を備えている。特にこの銃砲隊は、米軍上陸初日にオレアイの海岸に進出して先陣を切り、敵水陸両用車を射撃した。詳細は後述する。

 

 

このあと4月に「東松四号船団」が到着し、戦車第九連隊、独立工兵第七連隊、船舶工兵第十六連隊といった大物が揃い、あとは第四十三師団の到着を待つことになる。既にそれ以降の経緯は詳しめに書いたので、次回は米軍の上陸作戦に移る。

 

今回最後に、以前(第1727回)、同じ戦史叢書から米軍がサイパン島の詳細な地図を入手したのが4月18日だったという記述を引用のうえ、どうやって手に入れたのか書かれていなかったので「入手経路不明」と補足している。

 

 

戦史叢書の別の箇所に、この4月18日の朝、サイパン島では高射砲第二十五連隊を基幹とする防空隊が、「海軍戦闘機隊と空地連合訓練を実施した」とあり、その講評を終えて休憩の命令が出た直後、「アスリート飛行場から空襲警報を受領した」。

 

米軍機はB24が8機で、高度五千以上の上空から港湾と同飛行場に小型爆弾を落としただけで、日本側に被害はなく、しかし曇天で相手もすぐ去ったため高射砲22発を撃ったが撃墜はできなかった。これは撮影会ではなかったのか。

 

 

(つづく)

 

 

 

  

 

幼児のころ、祖父に静岡の菖蒲園につれていってもらい、一緒にスケッチをしたのを覚えている。  (2024年5月18日撮影)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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