ホウロクシギの採餌

 

 

今回より5回にわたり、前回の最後に触れた宿題、すなわちサイパンの陸海指揮官の最期について手持ちの資料を整理する。矛盾があるのだが、どれが真相なのか、結論らしい結論はまだ出していない。

 

それに綿密な検討の結果というより、私の推測や好き嫌いで話をまとめているところが少なくない。人の生き死にの問題なのにそれでよいのかというご批判もあろうが、これも伯父の戦争の一環だ。訳あって少し文章表現が荒れると思う。

 

 

伯父の二度目の出征は、マリアナの戦いにおける戦死で終わった。戦死日不詳。戦死の場所は有力候補が三つあり、(1)マリアナ沖で輸送船が海没、(2)陸軍の軍歴証明書によればテニアン島で戦死、(3)連隊はサイパンで軍旗を奉焼し壊滅。

 

伯父の所属は、陸軍第三十一軍・第四十三師団(名古屋)・歩兵第百十八聯隊(静岡)・第三大隊。前回戦史叢書より抜粋した箇所にある「南雲長官、齋藤師団長、井桁、矢野両参謀長は、最後の突撃に先立って自決した」という要人のうち、齋藤師団長と井桁参謀長は伯父の上官であり、残りの二人は海軍軍人。

 

 

この四名または矢野中部太平洋艦隊参謀長を除く三名は、手元の資料あるいは過去観た映画などの作品において、サイパンの洞窟内のような場所で揃って自決したことになっている。この大事な場面で人数が異なるということからして不自然だと思う。

 

とはいえ戦史に諸説あるのは普通のことなので、これから個別に手持ちの資料を当たってみる。いずれまた改めて調べるかもしれないが、現時点では上記のような「集団自決」があったとは考えていない。そろって切腹なんて忠臣蔵みたいではないか。

 

 

 

前回の戦史叢書(6)が示している参考文献、「元第四十三師団参謀平櫛孝少佐の戦後の回想」に該当するものが一つ、蔵書の雑誌「丸」別冊「玉砕の島々」に収録されているので、これから始める。

 

サイパンの戦いについて書かれた書籍、文章は多数あるが、その戦場に立った将校の回想録であるから、最初のうちは有難く拝読しておったところ、途中から興味をなくし信も置けず、このブログを続けるにあたって参照しなくなった。

 

 

例えば冒頭にある、サイパンは「敵来攻前ののんびりムード」という表現について、当初は真に受けて引用したものの、同時並行で読んだ他の資料と比較して不適切に思える。何万の軍人・民間人が死んだ戦闘で生き残り、しかも主力師団の参謀だった立場で、かくのごとく放言してよいものではない。

 

のんびりしていたのは、サイパンではなくて大本営だろう。いずれその状況は戦史叢書で再確認するが、昭和十九年に入るまで、陸軍は何ら実効策をなし得てしていないに等しい。なお、平櫛参謀はサイパン入りの前、大本営の報道部にいた。大本営発表の担当部署である。

 

飛行場建設一つとってみても、菅野静子は勤労動員で滑走路の工事に従事しているし、石上正夫著「大本営に見捨てられた楽園」によれば、テニアン島では人手が足りず、本土から囚人を連れて来て働かせた。在サイパンの第六戦隊(潜水艦部隊)の悪戦苦闘ぶりは既述のとおり。崎戸丸が沈んだのは2月29日。

 

 

著者が上陸した四十三師の第一次輸送は昭和十九年(1944年)5月だが、その翌月の第二次輸送は、ろくに護衛船舶も付けずに先を急ぎ、伯父の連隊が雷撃に遭い、海没で連隊長以下、半数以上が戦死している。

 

平櫛氏に個人的な恨みなどないが、その書作や本人が出てくる資料は、これから厳しく読む。まず上述の「丸」別冊の手記について、題名は「第四十三師団 サイパン玉砕記」。著者紹介欄に「なお、筆者は昭和五十年に死去されている」とある。

 

集団自決の箇所は、著者本人がその場で実見したものとして記録されている。ときどき引用されているを見かけるが、介錯人の副官が南雲中将に「よろしゅうございましょうか」と声をかけて始まる「厳粛な行事」であったと表現している。

 

 

同手記によると、三人の真ん中に坐ったのは平櫛参謀の上官である齋藤中将で、介錯は高級副官の牧野秀夫陸軍少尉であったという。他方、これと類似する場面が堀江芳孝著「悲劇のサイパン島」(原書房)に出て来る。

 

堀江第三十一軍参謀・陸軍少佐は、同じ「丸」別冊に、「サイパンを巡る大本営の狂乱」という手記が収録されているが、これは同書からの抜粋のようだ。この著作に、「平櫛元参謀の実話」という伝聞の記録がある。該当箇所は次のとおり。

 

そんなこんなで私が洞窟内に戻って来た時には、南雲、齋藤、井桁の三名は既に昇天しており、齋藤中将の専属副官柳本富雄中尉は、私を見るなり、ワーワー泣き出し、平櫛参謀がいなかったため、私が介錯をやりましたと語った。

 

 

この前の箇所に、齋藤中将と平櫛参謀の会話なるものが出て来るので(中将は「平櫛君」と呼んでいる)、両手記の平櫛氏は同一人物で間違いなかろう。そして両回想録のうち、少なくとも一方は事実でないことを語っている。副官の名前も違う。

 

今一度、前掲平櫛氏の手記に戻ると、彼は本件について、えらく力が入っている。別の蔵書(新聞の連載を書籍化したもの)がやり玉に挙げられているので、次回はそちらも拝見する。以下引用。

 

『中日新聞』『東京新聞』が連載した「烈日サイパン島」によると、七月六日、南雲海軍中将とともに矢野海軍少将も自決したことになって「四将軍自決」いう小見出しをつけて記述しているが、これは取材した人の考え違いで、自決に立ち会った私は、一提督と二将軍の自決であることを断言し得る。

 

 

(つづく)

 

 

 

 

オオヨシキリ  (2024年5月9日)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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