不忍池のキンクロハジロ

 

 

ただいま参照中の「戦史叢書第006巻 中部太平洋陸軍作戦<1>マリアナ玉砕まで」には、サイパンに司令部を置く第三十一軍の編成表が載っている。多くの部隊名の中で「戦車」の文字が見えるのは一つだけ。師団司令部直轄の戦車第九連隊。

 

相変わらずの物知らずで、これを見るまでは戦車の連隊があったことを知らなかったのだが、少なくとも九つはあったらしい。昭和十九年(1944年)の二月に満州からマリアナへの動員命令が出て、釜山、横浜を経てサイパンに渡っている。

 

 

同連隊の略歴が、国立公文書館のPDF資料に載っていた。10ページ目。

https://www.jacar.archives.go.jp/acv/contents/pub/pdf/C12/C12122498600.c1022610002.chuuou_06_01_008.0117_01.pdf

 

先年、ご親族がこの戦車第九連隊に所属し、サイパンで戦死なさったという方とお会いした。別件の席上だったし、いきなり戦死者について根掘り葉掘り訊く訳にもいかないので、詳しい話は再びお会いする機会があればぜひ伺いたい。

 

 

兵器に疎い私が戦車隊について語るにあたり、幸い一般向けの蔵書に同連隊の伍長だった下田四郎氏の証言が出て来る。同氏には単独の著書もあるが、そちらは読んでいない。上述の手元の書籍は、佐藤和正著「玉砕の島」(光人社NF文庫」。

 

副題は「太平洋戦争 激闘の記録」。第一章はソロモンのタナンボコ島。同島守備隊の壊滅は大本営が隠匿したため、第二章のアッツ島が玉砕発表の第一号となった。サイパンは第九章で、「玉砕の島➈ 戦車第九連隊、海を渡る」。今回と次回、これを参照する。

 

 

同連隊に動員命令が出たのが「十九年三月」と本書にある。上記のPDFでは動員下令が2月で、翌3月に集結。この時期は陸海ともに大臣と総長を同一人物が兼務し始めたときで、そのあと難攻不落を謳ったサイパンが陥落するまで半年ももたなかった。

 

ボクシングに例えるなら、すでにテクニカル・ノックアウトを宣告されるようなラウンドなのだが、人類の戦争は第二次世界大戦以降、今日に至るまで、かつての領地の奪い合いから、国家ごと相手国を叩き潰すものに変質した。敗色が濃厚になっても講和を進めにくい。

 

 

証言者の下田四郎元伍長は、動員下令時に20歳で、それまで関東軍の隷下にあった戦車第九連隊に所属しつつ、最初の2年間は九七式中戦車の通信兵の訓練を受けていた。戦車の通信兵は、戦闘が始まると機銃担当となる。こちらも猛訓練を受けた。

 

動員を受けた時の連隊は、戦車五個中隊および整備中隊の合計990名、戦車73両が早速、列車で釜山に移動した。横須賀で「東松第四船団」11隻が編成され、駆逐艦「五月雨」が護衛についた。

 

 

上野公園の立木も冬姿

 

 

下田伍長の第三中隊が乗った「加古川丸」は新造船だったが、時間が足らずペンキも塗らぬまま使い始めたため、赤サビにまみれていた。さらに、「自船を守る船舶砲兵がいなかった」。このため、対空と対潜は、戦車を並べて代行することになった。下田伍長は前代未聞だと思ったが、何もせず船に乗っている訳にもいかない。

 

実際に敵潜水艦が現れ、船団は攻撃や避難行動を繰り返したが、雷撃で「東征丸」と「美作丸」が沈没した。残りの9隻がサイパンに到着したのが4月10日。細部の相違点はともかく、時期は前回の「お兄ちゃん」上陸と同じころだ。

 

 

下田氏によると、彼の部隊の中戦車は、全て下士官以上が乗員となり、兵は整備や輸送などを担当する。中隊長が指揮する中戦車に軽戦車二両がつき、加えて中戦車三両の三個小隊が続き、合計戦車十二両。乗員数は中戦車が各四名で、軽戦車が各三名。

 

タッポーチョ山の麓の東岸で「たっぷり二か月」をかけて従事した軍事行動は、自分たちの戦車を格納するための穴掘りだった。サイパン島の石灰質の岩盤は硬かった。ようやく坑道が完成したころに敵が来た。それまで、訓練する余裕などなかった。

 

 

サイパンの陸海あわせた陸上部隊の兵員は、一つの島としては過去最多の43,000名。ほかの部隊も永久陣地の構築にいそしんでいる。陸軍は同年10月までに、この作業を終える予定であった。つまり、それまで敵は来ないはずだった。

 

サイパンに来た敵は、海兵隊員だけで7万人。その時点で、島上の日本軍はまだ前線と後方をつなぐ連絡路(交通壕)がなく、水中障害物も置いていなかった。そしてとうとう海空勢力の来援はなかった。渾作戦と「あ」号作戦で手一杯なのだ。

 

 

6月11日に上陸に先立つ空襲が行われたとき(敵艦載機190)、弾薬ほか軍事品は三分の一が、坑道や洞窟に集積されていただけで、残る三分の二は埠頭附近の露天に山積みの状態だった。この日の襲撃でガラパンは廃土と化した。

 

翌12日にはグアムとテニアンも襲撃され、13日には艦砲射撃が始まった。敵機は波状攻撃を仕掛けてきて夜も止まず、日本軍兵士は眠れぬ夜を過ごした。陣地強化もできず、司令部は部隊の掌握が出来なくなった。マリアナの基地航空は無力となり、上陸日の6月15日を迎える。

 

 

(つづく)

 

 

 

 

谷中の夕暮れ  (2023年12月10日撮影)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

.