初夏のうららの隅田川と両国橋

 

 

このころの中部ソロモンにおける当時の資料は、そもそも作られていないのか散逸したのか。後世の戦史叢書や回想録の記載も、部分的であったり、断続的であったり、そして不足部分は米軍資料で補ったりと、読むほうも大変なほどです。

 

陸上の主戦場はムンダの飛行場を巡る南東支隊(歩二二九、歩十三、八連特ほか)の奮戦ですが、連合軍は師団単位の増強があったりで、段々と日本軍を押してゆく。

 

この連合軍の上陸作戦に対し、日本軍はムンダの後方に位置するコロンバンガラやブーゲンビルから、逐次、兵員を移動させ、ムンダ方面に派遣します。移動方法は概略、コロンバンガラからムンダのあるニュージョージアへは陸軍の舟艇機動。ブーゲンビル・ブイン・ショートランドからは、海軍の駆逐艦輸送が中心です。昭和十八年(1943年)7月12日から13日にかけて、後者の海軍による輸送が行われた。

 

 

各資料共通しているのは、それまでコロンバンガラ島の守備に当たっていた歩兵第十三連隊(熊本)の主力が、7月9日にニュージョージア島に舟艇機動で渡り、ムンダの戦いに参加したため、コロンバンガラ島の守りが手薄になった。この島は中部ソロモンの兵站拠点でもあり。泊地と飛行場がある。

 

増員の輸送については、陸軍の第八方面軍がムンダの南東支隊の要請を受け、12日出発で、前回にも触れた第六師団・歩兵第四十五連隊(鹿児島)の一コ大隊を送ることとなった。部隊名で言うと歩四十五の第二大隊。一方で、同じ連隊の第三大隊と野砲兵第六連隊第八中隊が翌13日にバイロコに進んだと、陸軍の戦史叢書(40)にある。別々の大隊の玉突きなのか、誤植等なのか不明。

 

北斎の両国橋

 

 

この部隊が、その後どうなったのかも、まだ分からない。わがPCの画面で1~2ページ程度のネット連隊史を見ても、歩四十五はブーゲンビル島にいたことになっている。これは、うちの伯父の歩一一八も同様で、連隊はずっとサイパンにいたことになっているのだが、伯父の第三大隊だけは、海軍の資料および陸軍の軍歴、我が家の言い伝えが一致しており、テニアンにいたことが分かっている。

 

大まかな記録においては、戦時の連隊の所在地は記録上、要するに連隊旗があった場所であり、軍旗が奉焼されると連隊は消滅する。なぜ、クドクドと、こういうことを書いているかというと、私に限らず意外と家族・親戚の戦死地や消息を調べて回っている人が多いことが最近わかってきて、経験上、コピー&ペースト文明のネット情報を鵜呑みにしないほうがよいことをお伝えしたいからです。

 

 

海軍の戦史叢書(96)によると、司令部を失って間もない三水戦に代わり、今回は二水戦(第二水雷戦隊)ほかが出動することになった。この年に二水戦の司令官になったばかりの伊崎俊二少将が、輸送部隊の指揮官となった。旗艦は軽巡洋艦「神通」。駆逐艦の名は後日、戦史叢書や別の資料で確認します。

 

ちなみに、いま隅田川花火大会と呼ばれているお祭りは、戦後に再開したときに命名されたものです。江戸時代から戦時中までは、両国の川開きなどと呼んでいました。曳光弾や吊光弾が飛び交う銃砲撃を見た日本軍兵士が、両国の花火のようだったと書き残しているのは、このためです。去年はコロナ禍で中止。今年は現時点で、夏だとオリンピック・パラリンピックと重ねるため、秋に開催予定と聞いています。

 

 

 

(おわり)

 

 

 

 

櫂のしずくも花と散る   (2021年5月29日撮影)

 

 

 

 

 

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