(2) オキナワへの旅 12. 「沖縄戦」は「国体護持」のための戦争 | 地 球 一 人 旅  (2021)

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  12. 「沖縄戦」 は「国体護持」のための戦争

 

 

 1945年2月14日、アメリカ軍の沖縄攻略戦開始1か月以上前の出来事。

 元首相・近衛文麿は、昭和天皇に、戦況に関する所信を上奏した。    

 

  この時の、「 近衛上奏文 」 の冒頭には、次のように書かれていた。

 

 「 敗戰ハ遺憾ナカラ最早必至ナリト存候  

 

                           ( 日本外交年表竝主要文書 下巻 外務省 )

 

 ( 「近衛上奏文」の全文は ココ クリック)
 

 

  遠回し表現をせず、出だしから、いきなり、「敗戦必至」には驚かされる。

 

  こんな事、一般庶民が発言・書いて公表等すれば、命が危ない時代。

  近衛文麿は公爵、3度の首相経験ありの「重臣」なので、心配なし?

 

  が、木戸内大臣も同席、文章化までして上奏、後で言い逃れは不可能。

  近衛的には、内容にかなり自信があり、覚悟の上での上奏に違いない。

 

  さらに、実は、近衛一人の「目立ちたがり屋のスタンドプレー」ではない。

  背後に、吉田茂(戦後5度も首相)の「ヨハンセングループ」の存在があった。

 

   ( 「ヨハンセン」とは、「吉田反戦」の意味で、米軍諜報組織側の呼び名で、他に牧野伸顕・

   幣原喜重郎・鳩山一郎など。吉田邸の女中と書生はスパイであり、近衛上奏文の写しが

   憲兵側に漏れ、吉田は45日も拘留されるも、自白はせず。「反戦 」と言えば聞こえはいいが、

   終戦後に権力を握るための画策であり、民衆の側に立った「反戦」ではない。)

 

 

昭和 天皇

 

 

 

近衛 文麿

 

 

吉田 茂

 

 

   ( すでに、近衛上奏前年1944年7月にサイパンが陥落したため、岸信介国務大臣兼軍需次官

   は、東條英機首相に、「本土爆撃が繰り返されれば、必要な軍需を生産できず、軍需次官とし

   ての責任を全うできないから講和すべし」と進言、「ならば辞職せよ」という東條首相の要求を

   岸が拒絶、結果、閣内不一致で、東條内閣は総辞職の事態に。

   この、近衛上奏文当時は、サイパン発着B29の本土爆撃で、石油等の軍需基地が破壊され、

   「敗戦必至」の状況に。実は、近衛上奏1週間前、広田元総理も、ソ連仲介による和平を求め

   る他に手段なしとの状況認識を上奏していた。さらに、近衛上奏の5日後には、アメリカ軍の

   空襲が皇居に及び、天皇も防空壕に避難するという有様であった。 )

 

 

  近衛は、上奏文で、今、なすべきは、即時終戦であると、主張している。 

 

 「 一日モ速ニ戰爭終結ヲ講スヘキモノナリト確信仕リ候」  

 

                            ( 日本外交年表竝主要文書下巻 外務省 )

 

 

  が、天皇は、いくつか「御下問」し、次のように、近衛の上奏を退けた。

 

 「 もう一度戦果を挙げてからでないと中々話は難しいと思ふ 」

                            

                            ( 『 木戸幸一関係文書 』 東京大学出版会 )

 

( 天皇の「御下問」と近衛の回答は ココ クリック )

 

 

  この「難しい」は、「軍が戦争終結に反対なので難しい」の意ではない。

  「自分は立憲君主、政府決定に従うしかないので難しい」の意でもない。

 

  「今すぐの講和だと、『国体護持』 は難しい(アメリカが認めない)」の意だ。

  ( 天皇は、軍部の、「米国は我国体の変革迄も考へ居る」との観測の方を、信じていたのだ )

 

  天皇は「もう一度戦果を挙げて講和」・「一撃講和論」を主張したのだ。

  ( 「国体護持」目的の「一撃講和論」は、天皇独自の構想でなく、政府・軍でも主張されていた )

 

 

  もはや、昭和天皇は「まだ、この戦争は勝てる」などと主張していない。

  問題は今や、「 どうやったら、この戦争に勝てるか 」 ではなかった。

  「どうやって、『国体護持』 の条件を勝ち取り終戦するか」 だったのだ。 

 

  実は、近衛の「一日も早く、戦争終結」の主張も、目的は「国体護持」だ。

  最後まで行って敗戦だと、敗戦に伴う「共産革命」も最悪起きかねない。

  今なら国体護持は可能だが、共産革命だと、国体護持は絶対不可能。

  (近衛は、「軍部内ノカノ一味ノ存在」つまり、軍隊内「共産革命」勢力の存在まで主張してる )  

 

  つまり、「これ以上国民の命を失ってはならない」ので終戦をではない。

  「共産革命」だと、天皇制(華族制も)は廃止、自分達も処刑されてしまう。

  それを避けるため、国体護持を条件に、即終戦しましょうとの主張だ。

 

  対して、昭和天皇は、「国体護持」のための、「一撃講和論」を主張。

  負け続きに一撃くらわすには、これまで以上の犠牲が必至となるが。

 

  要するに、天皇陛下も近衛公爵も、頭の中は「国体護持」だけなのだ。

  国民の命・生活を守る事など、全く話題にすらのぼっていないのである。

 

 

 近衛は天皇を訪問し、『和平』 を説いた。

 

 近衛の『和平』論は、木戸よりもはっきりと降服論だったのであるが、天皇の近衛に対する返答は、沖縄の戦勝が得られたら、それを機会に和平を考えてもよいということだった。


 近衛  沖縄で勝てるという目算がありますか。
 天皇  統帥部は今度こそ大丈夫だといっている。


 近衛  彼らのいうことで今まで一度でも当ったことがありますか。
 天皇  今度は確信があるようだ。 

 

                ( 戒能通孝「群衆-日本の現実」-『戒能通孝著作集1』 )

 

 

 近衛は極端な悲観論で、戦いをすぐ止めた方が良いという意見を述べた。

 

 私(昭和天皇)は陸海軍が沖縄決戦に乗り気だから、今戦いを止めるのは適当でないと述べた。

 

                     ( 『昭和天皇独白録』 文春文庫 120ページ )

 

 

  詳しい事は作戦記録に譲るが、私(昭和天皇)はこれが最後の決戦で、これに敗れたら、無条件降伏もまた、やむを得ぬと思った。沖縄で敗れた後は、海上戦の見込みは立たぬ ……

 

                                 ( 戦後の、共同・記者会見より )

 

  

  「国体護持条件の講和のため、もう一度戦果を挙げる目的で行う戦争」

  その役割を、担わせられたのが、沖縄戦だった。

  最初から、「沖縄住民の命を守るための戦争」ではなかったのである。

 

  だが、沖縄に集結した日米軍事力格差は、あまりにも歴然としていた。

  (兵 54万8千 対 11万6千 航空機 10万 対 1万6千  空母 98 対 4  戦艦 23 対 1…… )

 

  「一撃講和」は望むべくもなく、沖縄戦の目的は、すでに、大きく後退。

 

  アメリカ軍を、沖縄本島に引き込み、できるだけ長く釘付けにする事。

  そして、持久戦・徹底抗戦により、可能な限り大量の出血を強いる事。

 

  要するに、「国体護持」条件の講和に必要な時間稼ぎ・ポイント稼ぎ。

  (「いいんですか、沖縄戦でこれ、本土決戦の米軍犠牲者は悲惨な数になりますよ」的脅し )

 

 もはや、こうしたことが、沖縄戦の目的になってしまっていたのだ。

 

 だからこそ、米軍上陸の際、「水際総力決戦」(短期決戦)は選ばなかった。

 だからこそ、沖縄守備軍司令部壕が陥落しても、降伏しなかったのだ。

 

 日本軍は、住民避難の南部地域へ後退、住民を盾にして「徹底抗戦」。

 沖縄戦は8月15日「終戦」で終わらず、9月7日「降伏調印」まで続いた。

  ( あの久米島の「鹿山隊」が行った戦いは、沖縄日本軍の戦いの「縮図」だったと言える )

 

 

 住民死者12万人は「運悪く、地上戦の巻き添えになった」のではない。

 日本軍の、沖縄住民ではなく、「国体」を守る戦いの犠牲にされたのだ。

 

 「沖縄は本土(の国民の命)を守るための捨て石にされた」

 といった事が、しばしば、言われる。

 が、実際は本土国民でなく、天皇制を守るための捨て石にされたのだ。

 

 沖縄守備軍は沖縄住民の命ではなく、天皇制を守るための軍隊だった。

 ( 兵士個々人の主観的意識レベルでは、「住民の命を守る」気持ちの兵士も多かったろうが )

 

 

 日本軍の住民虐殺は、「戦争中、偶然起こった不幸な出来事」ではない。

 沖縄戦・日本軍の本質から、必然的に生じた「権力犯罪」に他ならない。

 

 

  ( 続き 「 13. 近衛上奏時の「 聖断 」の可能性 」 ココ クリック )

 

 

 

( 戦後75年経っても、スローガンは、「国体護持」!? )

 

 

( ネットで、今も、しつこく売ってるけど …… )