右肩下がりの順境④「与る」 |  茂原市・フィジカルをレボする、フィジレボ Physirev.

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前回のつづきです。


ぼくはお金を使わずに生きることにした

スエロは洞窟で暮らすことにした

(ちなみに、前者は、明快で楽しく読みやすい本、
後者は、主人公の精神性に焦点が当てられています。
私個人的に興味を引くのは後者)

これらの本は、私の価値観をすべて変えかねない本で、
あまりいろいろ考えすぎて、なかなか更新できませんでした。

これらは、貨幣システムから、完全に脱却する、

「一切の金銭の授受をしない生活」を、している人のはなしです。

いまどき流行り?の「シンプルライフ」「エコな生活」「自給自足」的な
ものとは、わけがちがいます。

読んで、私は、自分自身にびっくりしました。

生まれてこのかた、
お金に、一切頼らない生活なんて、考えたことがなかった!
ということに、はじめて気づいたからです。

そして改めて考えてみると、
人間のごくごくなにげない思考、価値観、常識、
それらの土台は、

「お金のシステム」つまり

「取引」「貸し借り」「負債」「保険」のようなものに
ガッツリと浸食?されているのではないか?
(とくに強欲な私自身が、なのですが)
ということに、今更ながらショックを受けたわけです。


「取引」という価値観を持っていると、

たとえば、あまり人の世話になってばかりいると、
なんだか心苦しくなってくる。

「無償の愛」は、とくべつで、崇高なものに思える。

「無償の奉仕」をするときも、お金でなくとも
それに見合う対価を求めている。(私だけかもしれないですが)

恩は「返さなくちゃいけない」もの。

やられたら、やりかえさなくちゃ。

「割にあう・あわない」、「みかえり」といった考え方。


しかし、「自然界はバーターしない」。

元来、「無償」でもらう、あげる、ことは、ふつうのこと。
自然界では当たり前のこと。

「シカの死骸をついばむ烏は、
死んだシカに対しても、
シカという種全体に対しても、
そのシカを最初にしとめた捕食動物や
挽き殺した車に対しても、
債務を負うことはない」

「捕食動物も獲物も報復の意識など持ち合わせず、
やり返したりしない。
返済や負債は宇宙の領域に属することがらであって、
個々の生物がどうこうする問題ではない」

だから、貨幣システムをまったく介さない生き方があるとすれば、
それは、自分の中にある価値観、思想そのものが、
ガラリとひっくりかえってしまう、一大事ではないかと、
私には思われました。


お金という商品券には、善いも悪いもないけれど、
貨幣システム自体には、
さまざまな、ほころびがあるのは事実でしょう。

2冊の本に、経済システムについてわかりやすく説明されていますが、

現実にお金は、打ち出の小づちのようにどんどん無からつくりだされている「債務」であり、
流通が途絶えたその瞬間、文字通りイリュージョンとして消えてしまうものです。

私達は、お金がイリュージョンであることに目をつぶり、
いや、それに気づくまいとするために、
お金の使い道を、無理矢理「捻出」しつづけているのではないだろうか?

みずから、手持ちのお金をすべて手放したこのお二人は、
現実逃避し、夢のようなことを
言っている人たちではない。

「幻想」を生きているのはこちらの方で、
「金なし生活」を営んでいる、このおふたりは、現実逃避どころか、

過去でも未来でもなく、
「たった今」という「現実」を
しっかりと地に足をつけ、生きているように思われました。

「がんばって、多くの富を手にした人」のことを、
一般的には「成功者」と呼びます。

なぜか「手持ちのお金をすべて使い果たした人」を、
成功者とは呼びません。


富=成功という目的をもつ人々には、
「右肩下がり」。

つまり「不成功」に見えるかもしれない、
しかし、このおふたりは自分の目的としている理想を、まさに実現させている、
それは、成功へのプロセスを確かに刻んでいるといえるのではないでしょうか。


そんなことを考えさせられたのです。

これらの本の主人公は、読んでいただければわかりますが、
いわゆる世捨て人ではありません。

人との関わり、現実社会の中で生きています。

マーク・ボイルさんは、お金を使わずとも、
社会とうまく関わり、世の中を牽引していく人であると思われます。

「ぼくが思うに、
売り買いと与え合いのちがいは
売春とセックスのちがいのようなもので、
行為の背後にある精神が大きく異なる。

相手の人生をもっと楽しくしてあげられるからと言うだけの理由で、
代償なしに何かを与える時、
きずなが生まれ、友情が育ち、
ゆくゆくはしなやかな強さを持ったコミュニティーができあがる。

ただ見返りを得るために何かをしても、そうしたきずなは生まれない」と語り、

「自分の心境を抽象的に語るだけで済まさず、現実世界に実践」、
金なし生活を自ら実行してみせ、
フリーエコノミーを提唱する。


ダニエル・スエロさんは、

「誰もが他人に頼ることなく、何事も独力でやりとげるべきだ、
という考えがアメリカにはあって、
そのために私がこのような生活をしていると誤解する人が多い。

だけど本当は、この宇宙には誰一人として、
一個の分子ですら自足的な存在などないことを認識するためにやっているんだ。

われわればみな、他人に依存して生きている」

「皆が洞窟にすんでゴミ箱をあさればいいと思っているわけではない。
私が願っているのは、
一人一人が本心から必要だと感じるだけを取り、
あまった分は困っている人にあげてほしい、
ということ」

と語っています。

翻訳者さんによると、マークさんは現在も金なし生活を続け、
現在では無料のパブも運営しているそうです。

しかし、ちいさな疑問が残ります。

おふたりは、知力、行動力、健康、友人にも恵まれ、
「よく出来た」人たちなんです。
だから、金なし生活を遂行できる。

だけど、そうじゃない人は、こういうことを真似できるのか。

マークさんが目指しているのは、物物交換、地域通貨といったものを超え、
無償でシェアして生きられるコミュニティづくり。

健康などさまざまな理由で、
提供できるスキルや生産物をもたない人はどうしたらいいんでしょう。
いわゆる「弱者」にあたるひとたちは。

・・・そう考えていて、私はまたも、
お金を土台とした考え方、
「取引」
「あげる人」、「もらう人」、
「その帳尻を合わせることが大事」

という二元的な考え方に囚われていたことに気がつき、
愕然としました。

たぶん、金なし生活の目指すところは、
バーター取引、目の前のシーソーのつり合いを取ることではない。

「上げる人」、「もらう人」、
「提供する人」、「提供される人」には、
優劣もなければ、
上下もない。

自分は、一人では生きてはいけず、
つねに何らかの恩恵に
依り頼んで生きているという自覚と、

信頼から生まれる関係性のみが、
そこに存在するのではないでしょうか。

そんな中で、自分はどんなふうに生きたらいいのか。

そう考えているとき、素敵な言葉が思い浮かびました。

与る(あずかる)

という言葉です。
シェアと言う言葉は、英語圏でどんなニュアンスで用いられるのか、
日本人の自分にははっきりわかりません。
私の(勝手な)感覚では、「分かち合い」、というと、
個々に分解されていく印象があり、
「共有」というと、共同トイレのようなイメージを感じる。

「与る」という言葉は、すごく不思議です。

一つの文字の中に、与えることと、頂くという、
反対語ともいえる意味が、共存しているのです。
共存というよりも、内包と言えるでしょうか。

物々交換、貨幣のやり取りからくる、「取引感覚」。

それは、お互いを、釣り合わせなければならなくて、
もしも釣り合わなければ、
「高い、低い」、「多い、少ない」で、
優劣、勝ち負けがついてしまう二元論。

与る(あずかる)は、
一元・・・比較の世界ではなくて、すべてをひとつとする
考え方を示しているのではないでしょうか。

「与」という文字には、与える、という意味のほか、
仲間になる、関係する、助ける、許す、認める、などの意味が
あるようです。
そうして、「与るーあずかる」には、謙虚さがほのみえる。

さらに、その象形文字を見て、驚いたのです。





なにやら、たくさんの人々が、手を出しているではありませんか。

この手は、「チョーダイ」の手だろうか?

「アゲルヨ」の手だろうか?


私には、手を携えましょうと言っているように見えます。

そして、お互いを、引き上げようとしているようにも見えます。

さらに、「与」という文字は、
もともと、「興」という字の略字だそうです。


手を携えて、

興していく。


それも謙虚に。


与えていて、

それでいて、
もらっている。


そういう立場に、
「あずかっている」。

金なし生活は難しくても、そういう感じで生きていければ、
なんだか世の中はいい流れになっていきそうな気がする。

4回のシリーズで長々となりましたが、アイリッシュ音楽を聞きながら、
考えていたのは、そういうことでした。

(了)

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