烏頭坂 | 旧・スネコタンパコの「夏炉冬扇」物語

旧・スネコタンパコの「夏炉冬扇」物語

スネコタンパコの、見たり、聞いたり、読んだりした、無用のお話

                        烏頭坂 左の崖上に熊野神社がある

 

 川越市岸町二丁目、熊野神社下の旧川越街道に、烏頭坂と呼ばれる坂道がある。

 市が建てた説明板の内容はこうである。

 ≪烏頭坂(うとうざか) 旧川越街道を岸町から新宿町二丁目・富士見町へ上る坂道で、往時は杉並木がありうっそうとしていた。新河岸川舟運が盛んな頃は、荷揚げされた荷物を市内の問屋街に運ぶときに必ず通らなければならず、難所として知られていた。川越の地名として古くからあり、文明十八年(一四八六)頃、この地方を遊歴した道興准后(どうこうじゅこう)の『𢌞国雑記』に、「うとふ坂こえて苦しき行末をやすかたとなく鳥の音もかな」という歌がある。≫

 しかし、これでは、まったく、説明になってないのではあるまいか。なぜなら、肝心鹿島の要石である、この坂がなぜウトウ坂と名づけられたのか、さっぱりわけがわからないからである。それに道興准后の歌も理解に苦しむ。

 谷川健一の『列島縦断 地名逍遥』(冨山房インターナショナル)のなかの「善知鳥(うとう)――突出した岬」を読むと、歌の内容は概ね理解できるので、長い引用になるが、ほぼ全文記しておく。

 ≪ウトウはウミスズメ科の海鳥で、東北や北海道の沿岸に生息し、草地に巣を営む。繁殖期には上嘴の付け根に著しい角状の突起が見られることから、アイヌ語のウトウは突起を意味する。そこで鳥もウトウと呼ばれることになったと思われる。

 室町頃に流布された伝承では、猟師は蓑笠をかぶって巣に近づき「ウトウ」と親鳥の鳴声を真似すると、子鳥は「ヤスカタ」と答えてしまう。だから所在がすぐわかって捕らえやすい。子鳥を捕らえるとき、親鳥は空の上から血の涙をふりそそぐ。それが身体にかかると身を傷めるので、猟師は簑笠を脱がない。

 この俗伝をもとに謡曲「善知鳥」は作られた。諸国一見の僧が越中立山の湧泉地獄に苦しむ亡者から、「自分は生前ウトウヤスカタの鳥を殺して生計を立てていた外ヶ浜の猟師だが、𢌞国の砌、陸奥外ヶ浜に行くことがあれば、そこにすむ自分の妻子を訪ねて、罪ほろぼしのために、自分の手許にある蓑笠を手向けてほしい」と頼まれ、僧はその約束を果たすという趣向である。

 陸奥外ヶ浜は、今の青森のあたりであるが、寛永二年(一六二五)に青森の名が起る前は、善知鳥村と称した。葦の生い茂る沼を安潟(やすかた)と呼び、そのまわりに猟師の家がわずかに点在する侘しい漁村であった。いま青森市に安方という地名があり、そこに善知鳥神社がある。先の話は、安潟という地名が存在したことから、ウトウと呼べばヤスカタと答えるという不自然な作り話が生まれたものと思われる。
 
 青森市浅虫にも善知鳥崎がある。そこは海岸に突出した岬であるから、アイヌ語のウトウ(突起)から名付けられたものである。≫

 これで歌の内容はなんとか理解できたとしても、やはり烏頭坂の由来は不明である。

 しかし、谷川が、最後の最後に、こう記しているのを見落としてはならない。

 ≪新潟県佐渡島の相川の善知鳥郷をはじめ、善知鳥地名が日本各地にあるが、この場合のウツとかウトは、狭い谷や洞窟を指す地形地名で、それに善知鳥の字が宛てられた場合が少なくない。≫

 それで思い出すのが『新編武蔵風土記稿』に記された≪入間郡岸村≫に関するつぎの一節である。

 ≪岸村は河越城より辰の方に當り三芳野里と云。江戸より行程十一里に餘り、山田庄に属せり。此村正保中のものには宇戸澤村と書したれば、昔はかく唱へしこと知べけれど、今の如き名となりしは何の頃なりや詳ならず。≫

 実をいうと、わたしがこの地を訪れたのは、岸という地名に興味があったからであった。旧浦和市の岸町は調吉士に由来する地名であり、しかるがゆえに、岸町には調神社が鎮座するのではないか、というのがわたしの想像であって、要するに、川越の岸町も吉士一族とかかわりのある地名ではなかろうか、という疑問から訪れた次第であった。

 ところが、『新編武蔵風土記稿』は、正保(1644~1648)のころ、岸村は宇戸澤村と称した、というのである。つまり、この記述が正しいとすれば、岸という地名は吉士一族とは無関係だ、ということになる。

 わたしの推測はもろくも崩れ去ったが、受領は倒るる所に土掴めで、転んでもただでは起きない。

 わたしの頭のなかで小さく鳴り響いたのは、宇戸澤(うとさわ)のウトとは、烏頭坂のウトであり、谷川健一のいう≪狭い谷や洞窟を指す地形地名≫のことではないか、ということであった。いや、もしかすると、ウトサワとはウトウサカの訛ではなかろうか。つまり、もともとこの辺り一帯の地名がウトウサカだったのではあるまいか。

 『埼玉県地名誌 名義の研究』(韮塚一三郎 北辰図書)は、川越市の「岸」の項で、松尾俊郎の『地名研究』から引用して、「ウトウ坂」という地名について、≪坂の両側が切立って、切通し式の地形を呈するものである。≫としている。

 なるほど烏頭坂は、川越台地の縁にあり、高さ10mほどの崖を切り通して造られた道であることはまちがいなかろう。

 現在、烏頭坂の東側には、いわゆる川越街道である、国道254号線が坂上部の新宿町北交差点で旧川越街道と合流し、その東は、国道16号線下の崖をぶち貫いて東武東上線が走り、さらにその下をJR川越線が立体交差するという構造になっており、川越台地の開削工事で、烏頭坂が切り通しであった面影はまったく失われてしまっている。 

 


信号待ちの車列が烏頭坂 左端に東上線 その下をJR川越線 国道16号にかかる歩道橋から撮影


 しかし、わたしは、『埼玉県地名誌 名義の研究』がいうように、切り通し地形だったためではなく、この崖にウトと呼ばれる洞窟がいくつも口を開けていたが故、ウトの坂が訛ってウトウ坂になったものと考える。それはもちろんわたしの勝手な想像ではない。

 明治43年、この辺りの道路改修工事中に4つの洞窟が発見される。そのときの行政文書には、表題として、「入・仙波区ニ於テ発見セル洞穴ニ関スル件宮内大臣外ヘ上申」とあり、内容は、入間郡仙波区内の道路工事中に発見された4基の洞穴は古墳だと思われるから、発掘品と図面を宮内大臣あてに送ります、というものだ。

 これが記録上の岸町横穴墓群発見の端緒で、その後も、東上線敷設工事、東電の送電線鉄塔建替え工事、マンション建設時などにつぎつぎと横穴が発見されることになる。

 岸町横穴墓群については、『埼玉の古墳』(塩野博 さいたま出版会)に≪川越市街地の南部、入間川の支流、不老(としとらず)川に面した標高約二〇メートルの台地の南斜面≫に所在し、横穴墓の数は≪川越市立城南中学校から国道二五四号線の東側約五〇〇メートルの台地斜面に幾つかの支群を形成して、数十基の横穴墓が所在しているものと考えられている。≫とある。 

 




城南中学校付近の台地斜面 正面のマンション建設工事の際に横穴墓が発掘されている

 

 同書によると、横穴の規模は、≪天井の落盤もなく完全に近い状態で発掘≫された6号横穴墓の場合、≪全長七・〇三メートル、墓道四.五メートル≫とあるから、まさに洞窟である。遺物としては、ガラス製小玉、須恵器、甕片、杯片、土師器、土器片などとともに、≪壮年期の男性一体の人骨≫も出土している。

 道興准后がこの辺りを訪れた室町時代、1486年ごろには、すでに烏頭坂の名があったわけだから、それ以前の古い時代から、この崖に洞窟、つまりウトが多数あることは確認されていたのだろう。しかし、いつの間にかその存在は忘れ去られ、烏頭坂の名のみ残り、その由来もまた完全に失われてしまった。

 現代になってやっと、その洞窟の正体が横穴墓であることは判明したものの、烏頭坂という地名との間のギャップは未だ埋められてはいない。

 谷川健一は『列島縦断 地名逍遥』の冒頭こう述べている。

 ≪地名は大地に刻まれた百科事典の索引である。地名にはさまざまな学問の切り口があらわれている。歴史、地理、民俗、言語、地質、考古、動物、植物などの学際的な性格を地名は含んでいる。地名にまつわる伝承には古代史を解く鍵がひそんでおり、地名はまた地下に埋もれた遺物、遺跡などの所在を暗示することがしばしばである。≫
 
 わたしが地名にこだわる由縁である。