「 それさ、子どもに言わないでくれる?? 」
表面だけ
ととのえて
目に見えない
心のなかでの
『 変化( 成長 ) 』を
無視することのない、子育てを。
大切なものはいつも、目に見えない。
「 勉強しなさい! 」
それだけ
言い放つ
パパさんに対して
『 それ、言わないでくれる? 』
っと、先日の
わが家でのこと。
高校受験に向けての
中学1年生の
娘ちゃんに向けて。
たびたび
パパさんが
勉強しろ、勉強しろ、って言うので
芳恵ママとは
教育方針で
行き違うことが
多いのだけれど
それぞれの
言い分を
まとめながら
納得のある在り方へ
落とし込む
このごろのわが家でのこと。
芳恵ママとは
すべてが
全く真反対のパパさんなので
まぁ
ケンカするたびに
私自身の
成長の糧にはしたいと思ってる。
↑それぞれにある、小さい○が、愛( 同じ本質を持つ )だとして、愛( 同じ本質を持つものどうし=似たもの同士 )がカギになりながら性質の真反対の男女がお互い惹かれ合い補い合うバランスを保つ、という状態。
子育てって
ぼーっとしてると
( 何も考えないまま親になると )
自分が
育てられたときと
同じようなことを
そのまま、自分もわが子にしがち。
( 延々と昔の常識が、子ども達世代へつづく。)
自分が親にされてきたような
接し方、言葉がけ、ルールを
そのまんま
わが子へも
踏襲しちゃうので
いったん
立ち止まって
自分が子どもの頃
こうして欲しかったな、を
芳恵ママは
次世代へ
届けていきたい。
( どうしたって、親の自分の観念そのもの( 在り方 )が、子どもの観念になってしまうから。 )
『 自分 』が
親になった番には
『 自分 』の
フィルターをかけて
芳恵ママが
子ども達の乳幼児から
本当に読んで良かった本☆
古くて
毒的だった親( 世代、常識 )
の部分の観念を
自分の代では
手放しつつ
子ども達が
自分の人生を幸せに歩んでいけるような
より本質な在り方へ
私なりの
わが子たちの子育てとして
食から、健康な心と身体の土台から
子ども時代を
過ごしてもらいたく
日々の暮らしを
営んでいる在り方がある。
↑4才のときの末っ子ちゃん。体験から、感じるをベースにいろいろなところへ一緒に。
親の自分のほうに
そんな
一本の筋
があると
『 言葉がけ 』
のひとつひとつでさえ
理由があって
そうする、そうしない
を、決めて
子育てをしていくことの
芳恵ママにとっての
指針( 方向性 )になってくれている。
パパさんに対して
娘に「 勉強しなさい 」
っていうことばに
ムっと
反応してしまった
私のなかに
芳恵ママにとっての
とある観念
があったことに気づいた。
一度も親に
「 勉強しなさい! 」
って言われなかった
芳恵ママの子ども時代。
わたしにとって
それが本当に
良かったな、
と、今でも
今の自分をつくってくれた
お父さんの在り方に
感謝しているからだ。
子ども達にも
同じく、そうで在ろうとしている。
なぜなら
「 ~しなさい 」
と言われなかったおかげで
子ども時代の
自分のすること
( 勉強なり学びなり )
のすべてが
自分でやれた!
という達成感に
満たされてくれたから。
なにをするにも
親から言われたこと、
だったら
何をしようとしても
親に言われた
親からのタスクになってしまって
その瞬間
受け身になり
やる気のエネルギーも弱まってしまう。
やれて
達成できたとしても
しょせん
親から言われたことは
義務感になり
タスクが片付いた感、とか
親を悦ばせるため、とか
本当の意味で
自分のため、自分の歓びとして
自分の行動( 努力 )が
紐付かれていなくなってしまう。
「 ~しなさい 」
の親の命令系は
( たとえ、その言うことを聞いたとしても )
その先にある
子どもの自立心や達成感を奪う
奴隷的な在り方へ
わが子の心を縛る、呪いになる。
ありがたいことに
親から
一度も
「 勉強しなさい 」
と言われなかった
子ども時代の私は
ふりかえってみても
思うことが
自分のやってみた
ことがすべて
内発的な動機
からのものに
なることができた。
へたすると
受け身的になりやすい
タスク的な
勉強のすべてが
やっても
やらなくても
自分で決めていい
のなかで
やろう、と思って
やってみたとき
その結果に対しての
すべても
自分で受け入れられて
達成感も同時に
わたしができた!!!
わたしにもできた!!
っていう
自己効力感を
味わいながら
一歩、一歩を
自分の足で歩んできた実感
( 充実感も、挫折感も )
を、感じることができた。
この
自分がやりたくてやっている!
あの目標を、達成したいから
わたしはやってる!!
っていう
自分の内側では
ほかの誰からの
介入もない世界のなかで
ひたすら
自分と向き合う
( 自分の決めた目標に向かって進むときは、自分がライバル状態 )
自分がやりたいから
やっている!
っていう
感覚のまま
自分で自分を育てていくことができる
( 自分というのは、自分で育てることができる )
チカラを
培うことができたとも
実感してる。
これのいいところは
学びが
学校でするもの
学生のときにするもの
という
受け身なものですら
なくなることで
学びたいこと
探求したいこと
身につけたいチカラ( こと )
( テーマ )
があれば
いくつになろうと
どこにいようと
どんな状況からだろうと
いつでも
自分の人生の好きなタイミングに
生涯、それを自分に
→学ばせられる
→身につける
→成長させる、
ことができる在り方ができる、ということ。
だから
ずっと楽しい♡
『 生涯学習 』の
基礎力そのものにもなっている
ということ。
自分のなかで
いつでも
学び深め続けられるチカラ( 楽しいから )
そのものを
得られた、ということでもある。
同じことを
していたとしても
心の内側の感じが
全く違う。
( やらされる苦痛感か、やりたい快感か、の違いは大きい。 )
与えられたものではなく
自分からの
内発的な動機だから
自分のなかから
エネルギーがいちばん
湧き出つづける状態のまま
まっすぐに
内なる深みへ
すすむチカラを
集中させる感覚を
覚えることができた
子ども時代の経験は
生涯の
富だと、思う。
( 塾には、一度も行ったことがなかったけれど、推薦入学した進学校の高校で、いつのまにか成績がクラス1位、学年3位以内に入っていたことがあり、それは、誰とも競うことなく、ひたすら自分との戦いのなかで自分を超えようと向き合った結果だった。どういった状態の自分のときに、自分だけをみて集中できるのか、まっすぐ学びを深めていけるのか、自分の体感から、よそ見をせずに( 自分だけをみる )在り方の大切さを、実感したことは、親の家庭環境づくり、私への声かけの在り方のおかげで、それは生涯の、自分の在り方になっている。)
私に
『 勉強しなさい 』
と一度も言ったことのなかった
お父さんは
代わりに
私が
好き勝手な場所( 自分の部屋ではなくリビングとか )で
好き勝手なタイミングで( みんながテレビをみて団らんしているのに )
急に
勉強を始めだしても
黙って
勉強はじめたな、
と察して
サササーっと
テレビを消して
室内を
まっさらに
キレイに掃除をして
( 整理整頓 )
わたしが
集中しやすい環境
を、サラっと
揃えてくれていた、
というのを徹底してたなぁ
というのを
思い出す。
父自身も
いつも本を読んでいて
いつも学びつづけていて
そういう背中を見ていると
幼少期から
本を読むのが
好きになる。
( わが家は、テレビゲームと漫画が禁止で、おもちゃも少量。むしろ、自分と向き合う子ども時代に、ちょうどよかったと思う。)
お父さんが
いつも
観ていてくれたのは
思春期の
わたしたちの
( 3姉妹 )
表面的な行動
なのではなく
その
行動の内側にある
内なる心の
成長の部分。
” 学び ( たい )”
という
その行動の内にこそある
内的な
衝動や
内的な
探求
内的な
冒険
内的な
挑戦
内的な
登山・・・(笑)
内側で懸命に
挑戦し成長しようとしている娘の
内的な欲求を
そのままに
自ら欲するままの
その歩みを
くじかせない
ための親の
在り方は
黙って
環境をととのえる
だったように思う。
それに徹してくれていた
お父さんに
いまも
私こそが
学びたい姿勢だと
感謝している。
( その後、国立の教育学部に推薦入学した姉、私立の経営学部に入学した私、私立の医学部に入学した妹。それぞれが、好きな道へ、教育、経営、医学、3姉妹の私たちがそれぞれに好きなことを、欲するままに没頭できたのは、お金のあるなしではなく、そういう内的なチカラを育んでくれた、親の在り方だと、いまでも私が、感謝していることのひとつになっている。)
そしていま
私が親になり
子ども達へは
こう、育てていきたい
と思っている
在り方のひとつになっている。
○○しなさい
っていう命令系
ダメ!
っていう断定的な否定形
○○○(お姉ちゃんなんだから)
という理不尽系
の話し方を
しない、ということ。
欲するキモチを
そのまま尊重して
自分から
学び→達成、の歓びを
味わいながら
大人になっていくように。
( ⇒親は、学びたいきっかけや、学びに集中できる環境をととのえる、サポートする、に徹する。 )
ダメ!
ではなく
どうなるからこうなり危ないね!
と、幼少期から同じ目線で
本人が納得のいくような声かけをしながら。
自分で判断して
行動ができる
子どもに。
( ⇒薬物ダメ!ではなくて、どういった薬物が何の目的で日本に横行していて、それが人体にどういった影響を及ぼして、自分の人生を、どうしてしまうのか、だから自分はどう在りたいか、本人と一緒に学びながら自分で在り方を定めさせる、など。 )
お姉ちゃんなんだから
( お母さんなんだから、もそう。)
という
役割で本人の人格を
コントロールしない!
も、芳恵ママが
とても大事にしていたこと。
4人姉妹の長女の
中学1年生になった娘がいま
ふと
言っていた言葉に
『 ママは、一度も私に、お姉ちゃんなんだから、みたいなこと言ったことない。それが、ほんとうに良かった。 』
というのがあった。
役割がある以前の
自分が大切。
外部からの
固定された
社会的な先入観に
自分をあてはめて
苦しむことのないよう
大人になって
母親になっても
何か役割のある何かになったとしても
いちばん大切にしたいのは
自分であること。
自分の心。
自分とは??
を自分で決められること。
のびのび
大きく育っていきますように。
どの道を歩んでも
人生は、いつも繁栄するようにしか
向かっていない。
自分の人生の
その道が
自分で歩んでいるんだ、という充実感のなかで
子ども達が
自分らしく、どこへ行っても
幸せな存在で、ありつづけますように。
ひなまつり
すべての子ども達が
自分の命いっぱいに輝かせながら
人生を謳歌していきますように♡*・。
今日も
ありがとう。
芳恵ママ
サロンメンバーさんのお声
♡芳恵ママメディア♡