享徳の乱(堀越公方)の覚え方◇B中世249 | 東海林直人のゴロテマ日本史ブログ

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□249.享徳の乱(古河公方のはじまり) ◇B

[ゴロ]高額亡(こうがくぼう)の/資源失(う)を/今日から年越しトークの乱


古河公方)(足利成氏)(享徳の乱1454年)


[句意]高額を亡くし(た事故で)資源を失った問題を今日から年越しで(長期)トーク(議論)する,という句の末尾に勢いで「の乱」をつけたもの。「享徳の乱」を割って「1454年」が入っているので注意してください。


[ポイント]

1.享徳の乱(1454年)をきっかけに足利成氏は鎌倉を逃れ、古河公方となった。


[解説]

1.1454(享徳2)、鎌倉公方足利成氏(しげうじ)が関東管領上杉憲忠(のりただ)を暗殺した。これに対し室町幕府が追討を命じたため、関東地方一円が戦乱となった。これを享徳(きょうとく)の(1454~1483)という。


2.室町幕府方上杉方鎌倉公方方の3つどもえの争いが応仁の乱中の1483(文明14)年のまでつづき、関東地方は一足早く戦国時代に突入した。


3.足利成氏は鎌倉を退去し、下総古河に拠(よ)ったので古河公方(こがくぼう)と呼ばれる。


4.いっぽう上杉氏は、将軍義政の弟足利政知(まさとも)を伊豆堀越(ほりごえ)に迎えた。これを古河公方に対し堀越公方という。


〈2012中大・文:「

 1454年に、鎌倉公方足利成氏が関東管領上杉憲忠を殺害したため、成氏は幕府による追討の対象となった。そのため関東は、成氏を中心とするグループと上杉氏・幕府を中心とするグループに分かれて対立することとなり、(1)戦乱が続いた。この間、成氏は幕府軍の追討から逃れるため下総国の古河に移り、幕府は将軍足利義政の兄弟である政知を派遣して対抗した。しかし、政知は鎌倉に入ることができず、伊豆国に御所を構えたため[ A ]公方と呼ばれた。その後、関東では約30年にわたって内乱が続いた。

問1 下線部(1)について、この戦乱の名称を記しなさい。


問2 空欄Aに入る地名を記しなさい。」


(答:1享徳の乱、A堀越)〉


〈2014立大・経済コミュ福祉観光:「

 上杉氏は鎌倉公方を補佐する関東管領を世襲したが、14)15世紀には様々な対立が起こり関東の情勢は著しく不安定になっていった


問14.15世紀には様々な対立が起こり関東の情勢は著しく不安定になっていったに関する出来事a~eを年代順に答えよ。


 a.足利政知が室町幕府から堀越に送り込まれた

 b.足利成氏が上杉氏から追放され古河に移った
 c.足利持氏が滅ぼされた
 d.上杉禅秀の乱が起こった
 e.結城氏朝が挙兵したが敗れた」

(答:dceba ※a政知は6代将軍義教の子。1457年、足利成氏討伐のため鎌倉公方として下向した、b鎌倉公方足利持氏の子。上杉一族や幕府と対立し、1455年、下総の古河に移った、c足利持氏は1438年、6代将軍義教に永享の乱で倒された、d関東管領上杉禅秀(氏憲(うじのり))は、1416年、鎌倉公方と戦
い敗れた、e結城氏朝は、1440年、足利持氏の遺児を擁立し幕府に対し挙兵したが敗死した(結城合戦))


中世229.全種では/きもちウジウジ朱色の蘭(1416、上杉禅秀の乱)


中世232.ノリじゃねぇ/勇気カッセと/指示をだせ(1440、結城合戦)

中世231.英教は/ノリノリの/必死サンバが/持ち味だ(1438、永享の乱)
中世249.高額亡(こうがくぼう)の/資源失(う)じを/日から年越しトークの乱(1454、享徳の乱)〉