今回は、数年前からメインで巡っている播磨へ
国府山(こうやま)城跡や龍野城跡。
播磨三大城の『御着城跡。英賀城跡。三木城跡。』を巡りました
(年月は、バラバラです。)
最初に訪れたのは姫路市の飾磨区妻鹿(めが)と言う地。
【国府山城】(妻鹿城)
『朝の8時30分に岡山を出発して約2時間。市川沿いにポッコりと小山が見えて来ます。そこが国府山城、もちろん現在は、城跡です。
天気も抜群で、ちょうど桜の満開時期だったので良かったです。』
『朝の8時30分に岡山を出発して約2時間。市川沿いにポッコりと小山が見えて来ます。そこが国府山城、もちろん現在は、城跡です。
天気も抜群で、ちょうど桜の満開時期だったので良かったです。』
『麓に在る荒神社近くの無料駐車場に、車を止めて登城を始めます。』
『ここ、国府山城は、小寺や別所と共に赤松氏に属していた〈妻鹿孫三郎長宗〉が最初に築城したとされ、 後に 黒田職隆が改修し居城とし、姫路城の支城とします。
(黒田職隆は、黒田官兵衛の父で、当初は、姫路城主でしたが官兵衛に家督を譲り国府山城に隠居します。また、播磨攻めで秀吉に姫路城を譲った官兵衛も一時在城します。
職隆は、亡くなるまで城主を務めました。』
『境内には、黒田家ゆかりの目薬の木が2本植えられています』
(黒田職隆は、黒田官兵衛の父で、当初は、姫路城主でしたが官兵衛に家督を譲り国府山城に隠居します。また、播磨攻めで秀吉に姫路城を譲った官兵衛も一時在城します。
職隆は、亡くなるまで城主を務めました。』
『境内には、黒田家ゆかりの目薬の木が2本植えられています』
『神社境内に在る碑には妻鹿城址と』
『国府山城の案内板。 現在10時36分、登城をはじめます♪ 』
『荒神社の脇に登城口があり、登って行きます(杖も用意されてるのでありがたい♪)
遺構は、土塁跡や郭跡などなど案内板が在るので分かりやすいし整備されているので、ちょっとしたハイキングな感じ(^c^)標高も低いし小さいが!それでも、堅固な城だった。』
『本丸に着くと!展望所が整備されていて、海岸線や英賀城、姫路城に書写山、御着の方まで姫路中を見渡せます(^o^)(修復中の姫路城も見えます) 当時は、姫路城はもちろん、英賀城が ハッキリ見えたのだろう』
遺構は、土塁跡や郭跡などなど案内板が在るので分かりやすいし整備されているので、ちょっとしたハイキングな感じ(^c^)標高も低いし小さいが!それでも、堅固な城だった。』
『本丸に着くと!展望所が整備されていて、海岸線や英賀城、姫路城に書写山、御着の方まで姫路中を見渡せます(^o^)(修復中の姫路城も見えます) 当時は、姫路城はもちろん、英賀城が ハッキリ見えたのだろう』
『早足で巡り、再び荒神社に戻ったのが10時15分くらい、だいたい40分くらいで巡れるかな』
【黒田職隆の霊廟】
『国府山城の麓、現在は、住宅地の中に在ります。
亡くなるまで城主を務めた職隆(^^)やはり、職隆あっての黒田家だしね♪ もち重隆も。』
『国府山城の麓、現在は、住宅地の中に在ります。
亡くなるまで城主を務めた職隆(^^)やはり、職隆あっての黒田家だしね♪ もち重隆も。』
『それから、ココ 妻鹿の地は、母里太兵衛友信の出身地。母里太兵衛は、官兵衛の家臣で黒田24騎の一人で、その中の黒田八騎と言われる精鋭の一人です(^^)』
『とりあえず、時間的問題もあり、早々と国府山城を引き上げます。それでも、歴史的には楽しめる史跡でした(^^)♪ 』
『とりあえず、時間的問題もあり、早々と国府山城を引き上げます。それでも、歴史的には楽しめる史跡でした(^^)♪ 』
お次は~【播磨 龍野城】
(霞城)
(鶏籠山城)
(模擬二重櫓が現在の龍野城のシンボルになっています。また、復元御殿など。)
《龍野城は、鶏籠山頂に本丸(龍野古城:別名・鶏籠山城)とした山城 と 山麓に城を移し(霞城)とした平山城 と統治が二期に分かれる。
戦国時代は城主の赤松村秀による赤松氏が、鶏籠山頂に城を築いた。
中国攻めに出た羽柴秀吉に赤松氏が滅ぼされた後に、蜂須賀など秀吉の配下が城主に入ります。後に不便な山城は破棄、山麓に移り御殿を中心とした平山城とします。
江戸時代に脇坂氏が入り、龍野潘5万3千石の城下町として栄えました。
戦国時代は城主の赤松村秀による赤松氏が、鶏籠山頂に城を築いた。
中国攻めに出た羽柴秀吉に赤松氏が滅ぼされた後に、蜂須賀など秀吉の配下が城主に入ります。後に不便な山城は破棄、山麓に移り御殿を中心とした平山城とします。
江戸時代に脇坂氏が入り、龍野潘5万3千石の城下町として栄えました。
次は、播磨三大城
【御着城の小寺氏】
『御着城址』
(平城の御着城は、天川を天然の堀とし、二重三重の堀とで城下町を含めた惣掘りの巨大な城郭だった。また、山陽道を取り込み商業の発展した町でした。 現在は、姫路市東出張所の在る本丸跡、隣のグランドは二の丸跡になり天川橋の下が堀の跡とされて他は微かに面影が分かる所も?!あとは住宅地となっています。)
『小寺氏は、赤松氏の一族で (赤松より分かれ独自に勢力を拡大しました)、西播磨最大を誇る小寺政隆が御着城を築城。
後に小寺政隆に認められた黒田重隆は、小寺性を賜り家老職を務めながら支城の姫路城主を務めます。
また、官兵衛は小寺政職にその才能を認められ、家督を継ぐまで御着城で政職の近習として仕えました。』
後に小寺政隆に認められた黒田重隆は、小寺性を賜り家老職を務めながら支城の姫路城主を務めます。
また、官兵衛は小寺政職にその才能を認められ、家督を継ぐまで御着城で政職の近習として仕えました。』
そうそう!大河ドラマ【軍師 官兵衛】で、ココ御着城も有名になってます。平日にも拘らず沢山の人でした(^^;)・・・。
『御着城主の小寺氏は、赤松同士の勢力と度々戦をしていましたが、羽柴秀吉の中国攻めの際、別所など播磨の武将が織田方に就くとの事で休戦、家臣の進めもあり織田方へ就く事になります。 しかし!摂津有岡城主の荒木村重や、三木の別所氏など次々と毛利に寝返り!そんな中、小寺政隆も毛利に寝返ってしまいます。
そして結局は、三木城に次いで羽柴秀吉の軍に滅ぼされてしまいました。』
(御着城を見下ろせる火山と言うところに秀吉が陣を置きました。)
そして結局は、三木城に次いで羽柴秀吉の軍に滅ぼされてしまいました。』
(御着城を見下ろせる火山と言うところに秀吉が陣を置きました。)
【黒田家廟所】
『本丸の横に在る、黒田重隆(官兵衛の祖父)と官兵衛の母の墓が在る(また、重隆が備前で過ごした頃の黒田家縁者の墓が岡山県の妙興寺に在る)』
『本丸の横に在る、黒田重隆(官兵衛の祖父)と官兵衛の母の墓が在る(また、重隆が備前で過ごした頃の黒田家縁者の墓が岡山県の妙興寺に在る)』
それから、御着城を出発し向かったのが~ ココ(^^)/
【英賀城跡】
『英賀城は、水城で夢前川の河口に築かれていた。南が海、西に夢前川、東に水尾川が外堀の替わりをしている平城で現在では想像出来ないくらい大きな城郭でした。
『英賀城は、水城で夢前川の河口に築かれていた。南が海、西に夢前川、東に水尾川が外堀の替わりをしている平城で現在では想像出来ないくらい大きな城郭でした。
現在は、住宅地化され河口だった海岸線も埋め立てられイメージしにくい(^^;)遺構は、英賀神社の境内(本殿裏)に土塁が少し残っている
城跡を感じるには、当時の虎口だった所に10箇所ほど石碑が立っているので!その石碑を巡ると大体の外周が分かるといった感じ
「広い!広いよ~」 なのでパス!』
「広い!広いよ~」 なのでパス!』
(英賀城は、鎌倉期には既に砦が造られていたと伝わる。室町時代には、守護赤松氏の一族が入り居城した。
本格的に城として整備したのは、永享年間(1429~1441)赤松祐尚によると言われる。
嘉吉元年(1441)嘉吉の変で赤松氏の勢力が衰え、城主赤松祐尚が没すると、姻戚関係にあった三木道近が城主として入城した。その後、代々三木氏が城主を務た。
そして後、石山本願寺に味方しながら毛利に寝返った三木城の別所長治にも味方した。
しかし羽柴秀吉勢に攻められ、天正8年(1580)遂に英賀城も三木城、御着城に次いで落城した。「この時、攻めあぐねた秀吉軍は、諜略を用い城内の城兵に手を回し火を放ちます。この火は、瞬く間に城下町まで燃え一日にして全てを灰にしてしまいました。」)
本格的に城として整備したのは、永享年間(1429~1441)赤松祐尚によると言われる。
嘉吉元年(1441)嘉吉の変で赤松氏の勢力が衰え、城主赤松祐尚が没すると、姻戚関係にあった三木道近が城主として入城した。その後、代々三木氏が城主を務た。
そして後、石山本願寺に味方しながら毛利に寝返った三木城の別所長治にも味方した。
しかし羽柴秀吉勢に攻められ、天正8年(1580)遂に英賀城も三木城、御着城に次いで落城した。「この時、攻めあぐねた秀吉軍は、諜略を用い城内の城兵に手を回し火を放ちます。この火は、瞬く間に城下町まで燃え一日にして全てを灰にしてしまいました。」)
『英賀城の南側(河口付近)に在った【田井ヶ浜】と言い港があった地。
ココは、毛利軍約5000が攻め入って(上陸)来た地で、御着の小寺軍と姫路の黒田軍(約500~1000)が迎え撃ち!毛利軍を退けた地です。この時、官兵衛が活躍します。』
ココは、毛利軍約5000が攻め入って(上陸)来た地で、御着の小寺軍と姫路の黒田軍(約500~1000)が迎え撃ち!毛利軍を退けた地です。この時、官兵衛が活躍します。』
こんな感じで、いろいろ想いながら英賀城跡も撤収します
そして、ラストの三木城を~♪ 二回に分けて行って来ました
播磨の城で、この三木城は、絶対に忘れてはいけませんね♪
播磨の城で、この三木城は、絶対に忘れてはいけませんね♪
『歴史に詳しくない人でも!だいたい聞いた事はあるはず』
(天守台跡?)
(現在の遺構は、本丸跡に井戸跡、堀切跡が残るのみで、住宅地に飲み込まれています本丸跡には、辞世の句の碑もあります。)
(本丸跡には、辞世の句の碑もあります。)
別所家は赤松家の流れを汲む名家で、播磨では当時最大の勢力を誇る大名家であった。
別所長治は1558年誕生の説。父は別所安治(別所長勝)、母は浦上氏の娘。父・別所安治が1570年に39歳の若さで病死すると、僅か13歳で家督を継ぎ、叔父である別所賀相・別所重棟らの支えを得て別所家を保った。
正室の照子は波多野秀治の妹(又は、波多野秀治の娘とも)。
別所家は三好家と争っていたこともあり、早くから織田信長に臣従。家督を相続した別所長治も、1575年10月、織田信長に謁見し、1576年には新年の挨拶をしている。
別所長治は1558年誕生の説。父は別所安治(別所長勝)、母は浦上氏の娘。父・別所安治が1570年に39歳の若さで病死すると、僅か13歳で家督を継ぎ、叔父である別所賀相・別所重棟らの支えを得て別所家を保った。
正室の照子は波多野秀治の妹(又は、波多野秀治の娘とも)。
別所家は三好家と争っていたこともあり、早くから織田信長に臣従。家督を相続した別所長治も、1575年10月、織田信長に謁見し、1576年には新年の挨拶をしている。
しかし、名家であるが故に、1577年5月に加古川城で行われた、羽柴秀吉と別所吉親の会談(加古川評定)で生じた不和をきっかけに悪化。加古川の会談に代理で出席した別所吉親は、織田信長の中国方面担当の総司令官が、成り上がりである羽柴秀吉(豊臣秀吉)であることに不満を感じたようで、別所長治を説得。
別所長治は、既に1576年1月に織田信長に反旗を翻していた、妻の実家である丹波国の波多野秀治に呼応する形で、1578年3月、織田家に反旗を翻し、三木城に一族・国人衆と共に7500にて篭城した。
羽柴秀吉への反感説以外には、15代将軍・足利義昭の調略、織田信長への反感説、浄土真宗(一向宗)による突き上げ説、毛利家の謀略説、叔父である別所賀相(反織田)と別所重棟(親織田)の対立説など、多くの説がある。
別所長治は、既に1576年1月に織田信長に反旗を翻していた、妻の実家である丹波国の波多野秀治に呼応する形で、1578年3月、織田家に反旗を翻し、三木城に一族・国人衆と共に7500にて篭城した。
羽柴秀吉への反感説以外には、15代将軍・足利義昭の調略、織田信長への反感説、浄土真宗(一向宗)による突き上げ説、毛利家の謀略説、叔父である別所賀相(反織田)と別所重棟(親織田)の対立説など、多くの説がある。
別所長治に同調しなかったのは、加古川城の城主・糟屋武則と、叔父の阿閉城主・別所重棟の2人だけで、東播磨の豪族が一斉に織田信長に反旗を翻したのである。
黒田官兵衛の妻・櫛橋光の父で志方城の城主・櫛橋左京進(櫛橋伊定)や、亡くなった母・岩の実家である明石城主・明石左近も、別所長治に同調して織田信長に反旗を翻した。
黒田官兵衛の妻・櫛橋光の父で志方城の城主・櫛橋左京進(櫛橋伊定)や、亡くなった母・岩の実家である明石城主・明石左近も、別所長治に同調して織田信長に反旗を翻した。
『播磨の三大勢力の別所氏、播磨で一番か二番と言う勢力でした。そんな別所氏でしたが、織田信長の中国攻めで羽柴秀吉が来る時に織田方へ味方します。
しかし、毛利に寝返ってしまいます。 そして、小寺を含め播磨の武将達も毛利へ寝返ってしまいました! しかし!秀吉軍には、敵わず滅びてしまいます。』
しかし、毛利に寝返ってしまいます。 そして、小寺を含め播磨の武将達も毛利へ寝返ってしまいました! しかし!秀吉軍には、敵わず滅びてしまいます。』
その三木合戦で有名なのが、《三木の干殺し》と言われる徹底した兵糧攻めです秀吉は、近くの平井山に本陣を構え、三木城を囲う様に二重三重に砦を築きました。 これには、援軍の毛利も手が出せず討って出た三木勢も撃退されました。
(平井山本陣跡)
そして、もう一つ忘れてはいけないのがこの合戦中に病の為、竹中半兵衛が亡くなります
(竹中半兵衛の墓) 竹中半兵衛終焉の地
(また、長治夫婦の首塚も在ります。)
これにて、とりあえず播磨の城攻めを終わります。