3月6日。EST、午前9時半。土曜日。
麗らかに晴れた土曜日の朝。華氏31度。チャックは午前八時の急行電車で出勤。
紐育時報朝刊で、デトロイト駅廃墟を取り壊す記事を読んだ。
航空機全盛になって、大陸横断列車はもうはやらない。
六十年前の大学時代、冬休みや夏休みになると大学の同級生たちはヴァーモントのホワイトリヴァー白河で汽車に乗りこみ、ニューヨーク駅で大陸横断列車に乗り換えて、デトロイトやシカゴ経由で西部の故郷に帰省したものだった。
僕も大陸横断列車は幾度も利用した思い出がある。太平洋戦争の十年あとに徴兵されて、米国南西部に配属されていたが、シカゴ経由の列車旅行は常識だった。
米国生活は大學卒業後の20年にかけて経済的黄金時代だった。
デトロイトが自動車産業の王位を誇っていたのは書くまでもないだろう。僕たちはデトロイト郊外都市ポンチアクからこのアパートに移り住み、(上掲写真。最上、第22階半分、左端)政府宇宙局情報部施設に僕は就職した。
まだ、コンピュータが発達し始めたばかりで、僕は工業情報を検索する仕事を司書数名監督し、教育する役目だった。
検索課題を辞書をつかって数字に変え、Boolean方程式を作り、パンチさせて、IBM6900だったかを使って入力、処理した。まだ、真空管を使ったコンピュータだったし、提出した検索を処理数のに24時間かかった。機能から言えば、あのIBM6900(?)は現在のラップトップよりも機能が劣る。今では想像もできない「未開さ」だった。
そのアパートから、僕たちはデトロイトとデトロイト川対岸のカナダを毎日眺めて暮らした。
デトロイト川の真ん中に浮かぶのは遊園地、ベル島で、対岸にカナダの平原が広がっていた。
まだ、デトロイトは廃墟化してなかった。
この町の夜景は格別だった。お盆のような月の下に、摩天楼が満艦飾で輝いた。
デトロイトのこのアパートに移ったのが1964年だった。
その十年前、太平洋戦争終了(1945年)の9年あと、僕はダーツマス大學を卒業、ミシガン大學大学院一年を終了したまま徴兵された。朝鮮戦争が始って、もう4年経っていた。
徴兵にひっかかったあと、新兵だったまま僕はほかの少年たちと一緒に米国南西部アーケンソの訓練基地に送り込まれた。僕が当時まだコドモコドモした、世慣れしてない、ウブな子供だったこちは言うまでも無い。
酒も煙草も知らなかったし、ワルイことは何も知らなかった。
その時、南西部に転送されるために、潜ったミシガン中央駅の正門がここだ。当時は18階建で、デトロイト自動車産業を誇示するかのような、物凄い造りでもあった。
まだアメリカ到着から10年しか経って居なかった。
日本軍統治下の生活では、軍隊は娑婆とは違う地獄だ、初年兵は一銭五厘で召集されるもの、上官がひっぱたくのは当然、輸送は貨物列車ってのが常識だった。
まだ軍服も配給されてなかった僕たちはミンカン服のまま連れ込まれた客車に座った。車窓のそとを米国中央部平原が走り去りつづけた。そして、手押し車を押した乗務員がCoffeeを配ったし、食べ物も有料ではあったが買えた。夜になったら、Pullmanの黒人乗務員がやってきて、上下寝台を下ろしてくれた。(連行の班長がチップははずむんだよと、僕たちに注意した。)
南西部のミズーリに入ったら、途端に列車が停車した。警察官だったかが乗車してきて、「黒人乗客は全員、後の客車に移ってください。」と、丁重ながら、大声で言った。
その時、デトロイトで潜った正門があるミシガン・セントラル駅は、2010年の今日、廃墟化したまま残っている。
麗らかに晴れた土曜日の朝。華氏31度。チャックは午前八時の急行電車で出勤。
紐育時報朝刊で、デトロイト駅廃墟を取り壊す記事を読んだ。
航空機全盛になって、大陸横断列車はもうはやらない。
六十年前の大学時代、冬休みや夏休みになると大学の同級生たちはヴァーモントのホワイトリヴァー白河で汽車に乗りこみ、ニューヨーク駅で大陸横断列車に乗り換えて、デトロイトやシカゴ経由で西部の故郷に帰省したものだった。
僕も大陸横断列車は幾度も利用した思い出がある。太平洋戦争の十年あとに徴兵されて、米国南西部に配属されていたが、シカゴ経由の列車旅行は常識だった。
米国生活は大學卒業後の20年にかけて経済的黄金時代だった。
デトロイトが自動車産業の王位を誇っていたのは書くまでもないだろう。僕たちはデトロイト郊外都市ポンチアクからこのアパートに移り住み、(上掲写真。最上、第22階半分、左端)政府宇宙局情報部施設に僕は就職した。
まだ、コンピュータが発達し始めたばかりで、僕は工業情報を検索する仕事を司書数名監督し、教育する役目だった。
検索課題を辞書をつかって数字に変え、Boolean方程式を作り、パンチさせて、IBM6900だったかを使って入力、処理した。まだ、真空管を使ったコンピュータだったし、提出した検索を処理数のに24時間かかった。機能から言えば、あのIBM6900(?)は現在のラップトップよりも機能が劣る。今では想像もできない「未開さ」だった。
そのアパートから、僕たちはデトロイトとデトロイト川対岸のカナダを毎日眺めて暮らした。
デトロイト川の真ん中に浮かぶのは遊園地、ベル島で、対岸にカナダの平原が広がっていた。
まだ、デトロイトは廃墟化してなかった。
この町の夜景は格別だった。お盆のような月の下に、摩天楼が満艦飾で輝いた。
デトロイトのこのアパートに移ったのが1964年だった。
その十年前、太平洋戦争終了(1945年)の9年あと、僕はダーツマス大學を卒業、ミシガン大學大学院一年を終了したまま徴兵された。朝鮮戦争が始って、もう4年経っていた。
徴兵にひっかかったあと、新兵だったまま僕はほかの少年たちと一緒に米国南西部アーケンソの訓練基地に送り込まれた。僕が当時まだコドモコドモした、世慣れしてない、ウブな子供だったこちは言うまでも無い。
酒も煙草も知らなかったし、ワルイことは何も知らなかった。
その時、南西部に転送されるために、潜ったミシガン中央駅の正門がここだ。当時は18階建で、デトロイト自動車産業を誇示するかのような、物凄い造りでもあった。
まだアメリカ到着から10年しか経って居なかった。
日本軍統治下の生活では、軍隊は娑婆とは違う地獄だ、初年兵は一銭五厘で召集されるもの、上官がひっぱたくのは当然、輸送は貨物列車ってのが常識だった。
まだ軍服も配給されてなかった僕たちはミンカン服のまま連れ込まれた客車に座った。車窓のそとを米国中央部平原が走り去りつづけた。そして、手押し車を押した乗務員がCoffeeを配ったし、食べ物も有料ではあったが買えた。夜になったら、Pullmanの黒人乗務員がやってきて、上下寝台を下ろしてくれた。(連行の班長がチップははずむんだよと、僕たちに注意した。)
南西部のミズーリに入ったら、途端に列車が停車した。警察官だったかが乗車してきて、「黒人乗客は全員、後の客車に移ってください。」と、丁重ながら、大声で言った。
その時、デトロイトで潜った正門があるミシガン・セントラル駅は、2010年の今日、廃墟化したまま残っている。






