遊女評判記『色道大鑑』(1678年序/全18巻/藤本箕山 著)

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色道大鏡/藤本 箕山

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遊廓(ゆうかく)は、公許の遊女屋を集め周囲を塀や堀などで囲った区画。
◎成立:安土桃山時代
◎別称:廓(くるわ)、遊里(ゆうり)、色町(いろまち)、傾城町(けいせいまち)
「廓(くるわ)」は「城郭」と同じで、囲われた区画を意味し、一区画にまとめられたのは、その地の支配者が治安を守り風紀を統制することが目的であった。
江戸時代、公許の遊廓以外に半ば公認の遊廓として、宿場町や門前町などには飯盛旅籠(めしもり はたご)や岡場所(おかばしょ)と呼ばれる私娼窟があった。
権力の統制と保護を受け、遊廓として一区画に集められたのは近世以降のことであり、豊臣秀吉の治世に、遊廓を設けるため京の原三郎左衛門と林又一郎が願い出を秀吉にしており許可を得ている。
その五年後の天正十七(1589)年には、京都・二条柳町に遊廓が作られ、大阪と京都の遊廓は17世紀前半に、それぞれ新町(新町遊廓)と朱雀野(島原遊廓)に移転した。
江戸に遊廓が誕生したのは慶長十七(1612)年。駿府(現在の静岡市)の二丁町遊郭から遊女屋を移して日本橋人形町付近に遊廓がつくられ、これを吉原遊廓と呼んだ。吉原遊廓は明暦の大火で焼失。その後浅草山谷付近に仮移転の後、すぐに浅草日本堤付近に移転した。人形町付近にあった当時のものを「元吉原」、日本堤付近に新設されたものを「新吉原」とも言う。
夕霧太夫のいる大坂の新町遊廓、吉野太夫のいる京都の島原遊廓、高尾太夫のいる江戸の吉原遊廓は、三大遊廓と呼ばれて大いに栄えた。この他にも江戸時代には、全国20数箇所に公許の遊廓が存在した。最大の遊廓は江戸の吉原で、新吉原ができた頃には300軒近い遊女屋があったと言われている。
鎖国の時代になると、寛永十六(1639)年ごろには西洋との唯一の窓口として栄えた長崎に丸山遊廓が誕生した。井原西鶴は『日本永代蔵』に「長崎に丸山という処なくば、上方銀無事に帰宅すべし、爰通ひの商い、海上の気遣いの外、いつ時を知らぬ恋風恐ろし」と記した。この丸山を三大遊廓に数える書もあるほどで、南蛮貿易で潤った当時の華やかさがうかがえる。
藤本箕山が著した遊女評判記『色道大鑑』(1678年序、全18巻)には、当時の遊廓25箇所が列挙されている。
京島原
伏見夷町(撞木町)
伏見柳町
大津馬場町
駿河府中
江戸山谷(吉原)
敦賀六軒町
三国松下
奈良鴨川木辻
大和小網新屋敷
堺北高洲町
堺南津守
大坂瓢箪町(新町)
兵庫磯町
佐渡鮎川
石見温泉
播磨室小野町
備後鞆有磯町
広島多々海
宮島新町
下関稲荷町
博多柳町
長崎丸山町寄合町
肥前樺島
薩摩山鹿野田町(山ヶ野金山)
江戸時代初期、遊廓は代表的な娯楽の場であり、文化の発信地でもあった。上級の遊女(芸娼)は太夫や花魁などと呼ばれ、富裕な町人や、武家・公家を客とした。このため上級の遊女は、芸事に秀で、文学などの教養が必要とされた。
江戸中期以降は度々の取締りを受けながらも、遊廓以外の岡場所が盛んになった。また、遊廓自体もの大衆化が進み、一般庶民が主な客層となっていった。