第2回加藤研自主ゼミの議事録です。

■日時:09年6月20日(土)14:00-17:00
■場所:構想日本オフィス(永田町)
■形式:ゲスト講演+ディスカッション
■テーマ:臓器移植について
■ゲスト:加藤秀樹先生
■参加者:15名

■議事録

▽1.加藤研について(山田さん)
   本質を捉えるということ
   なぜディスカッションをするのか
   加藤研のよさ:自分の意見を率直に、相手の意見を否定しないこと 


▽2. 臓器移植について(オバマくん)
<問題点>
・ 日本人の死生観
・ 15歳未満の臓器提供
・ 患者の人権(本人同意なし)
・ 脳死の判断基準
・ 遺族の心のケアは?
・ 国内最初の心臓移植(秋山医師)は殺人罪で起訴(最終的には不起訴)→タブー視


▽3. 加藤先生による講義&ディスカッション
改正案 A案の特徴:臓器移植とは関係なく「脳死=死」を定義するもの


<急に改正が議論されるようになった背景>
・もともと臓器移植法は10年経ったら見直すことになっていた→見直されていない
・ WHO:海外での非合法な臓器売買を抑制するため、国内での臓器移植を原則とする
・ 補足:自民党近衛(息子の河野太郎から腎臓移植)への花道とも言われている
(→こういう内容は、あまり断言しない方が良い。)
・ マスコミでは、このままでは死んでしまう子供を国内で救おうという機運を高めた。そこだけクローズアップした問題はある。
・ 中国では囚人を殺して臓器を取り出しているという話もある。(買い手がいるからそうなる)


<議論>
・ 死生観:周りの人が死をどう受け入れるのか
・ もらう側として関わるのか、あげる側として関わるのか。もらう側はわかりやすい。親なら子供のために欲しい。あげる側が難しい。どう関わるのがいいのか。2つの立場の折り合いをどうつけるのか。
・ 自分の子供が臓器提供者としてOKを出せるか・・・その子供はあたたかく、つめも髪も伸びる。
・ どちらかといえば、臓器提供はできるほうがいい?・・・ほぼ全員挙手
・ 親の臓器がだれかの体で生きるならば移植した方がいい
・ 15歳という年齢制限を見直すべき→虐待リスク、子供の心臓はまだ発達段階
・ システムができあがっているときに日本だけ禁止しても仕方ない。システムとして合法化した方がアンダーグラウンドでの事件は減るのでは?
・ 待っている人、提供できる人のバランスは?移植はそもそも先進国でしかできない。システムとして機能していると言えるのか。
・ フィリピン人よりもアメリカ人の子供の臓器は高い。
・ できる余地があるならば可能性をつぶすべきではない
・ 自分が脳死になったら提供してもらいたい。提供される側が身近な人だと、提供してもらいたい思いは強くなる。生きたいと思う意志は尊重すべき。
・ 正式登録者:臓器(心臓?)を提供してもらいたい人(15歳未満)で3人(国内)。未登録は不明。15歳以上(大部分が中高年)では肝臓3000人、腎臓数万人→肝腎は生体間移植可能。
・ システムとして機能していること=生きている。だれかのシステムを機能させるために役に立つなら提供したい。しかし、母親は提供して欲しくないという。万が一、戻ることがあれば、と考えてしまう。脳死から戻る可能性がどれくらいあるかをもとに個々に判断するしかない。15歳未満については、国内でなるべく早く延命する道は望ましい。
・ 脳死状態で8年生きている人がいる。背も伸びる。親は死んでいるとは思えない。
・ 今は脳死でも、医学の進歩によって元に戻ることがあるかもしれない。死は定義しづらい。今時点で判断すると「脳死状態」であるとしかいえない。
・ 脳死=死を認めるデメリット:子供の脳死状態は判定が難しい。虐待をどうするか。1人を救うために膨大な金と人を使う必要があるのか。家族の感情。
・ メリット:アジアでの臓器売買を抑制。目の前にいる人が助かる可能性。理想としては、脳死に関わるコストを再生医療に回してはどうか?現段階ではメリットの方が大きいのでは?
・ 子供を守るのが大人の義務。子供は子供の臓器でしか救えない。国内で完結できる方がいい(自給自足)。
・ 子供の臓器移植は数年後に亡くなることも多いらしい。体全体としての働きは難しい。
・ 「脳死」の判定は今後も常にあいまいなもの。医学の進歩もある。それを前提に考えた方がいい。一人の命で6人を救えることになると、治療打ち切りもありうる。提供側への配慮は必要。
・ 脳死の人は実際にはかなり死に近い。機械をOFFにすれば死んでしまう。臓器があれば助かる人がいるのならやった方がいい。腎臓肝臓の移植と脳死を含めた移植は分けた方がいい。脳死から助かるのは相当奇跡的なこと。脳死状態では人工呼吸器などで生かすことはできるが、線引きとして臓器提供も考えることはできる。
・ 家族は機械で生きていることはわかっていてもOFFにできない。
・ 臓器移植学会としては「商売」でもある。家族はその瞬間での判断を求められる。医者は誘導することもできる。
・ 家族だけの意思でOK、あるいはOKする人が増えるほど、NOと言う人が非人道的に扱われてしまうかもしれない。
・ 脳死と「人道的かどうか」は全く違う。人道的とは、社会的状況に対して手をさしのべること。脳死は個人の問題。突き詰めて言えば、単なるエゴの問題。身近な人を助けたいというのはエゴ。マスコミはそういったすり替えをやる。
・ 自分の大切な人の死を受け入れられるかどうか、という個人の問題。宗教観。カトリックは体と魂は別など、宗派による違いはある。患者は考える脳が死んでいるので、どうしたいかはないと思うが、周囲の人間の意志。どこかで生命の神秘へのリスペクトは必要。生かせる技術があれば生かした方がいい。
・ 中絶、代理母出産は普通に行われている。生に対する親の勝手。
・ 「人の命を救える」のは美しいが、救いたい人、救われたい人がどういう人か。救う価値のある人か?
・ 厚生労働省は臓器移植を増やしたくない。金がかかる。移植可能な病院では、暗黙で年間何件まで、ということもある。
・ 今の脳死は、機械をつなげるようになったから存在している。脳死=死と定義することで、つなぐコストが節約できる。法律上の制約よりも、行政側の都合(コスト)の意識として、脳死状態が増えないことを望んでいる?
・ 小児で脳死からの移植(腎臓肝臓含む)は100例/年ほど。腎臓を待つ人は透析をやって待っている。透析は800万/年間かかる。脳死状態を維持するために650万/月かかる。医療費と移植の話は切り離せない。臓器移植が進めば医療費は削減できるはず。乳がん手術費は20万円程度。手術の費用は安い。
・ 医療は何のためにあるのか。寿命を延ばすのは医療ではない。寿命を充実させることが医療の役目。その人にとって何が人生を充実させることなのか。臓器移植をその選択肢と考える人がいるならば可能性としては残す方がよい。
・ A案は、脳死状態になったら「モノ」。臓器移植するかどうかはその次。
・ 自分は臓器提供したくないし、してもらいたくない。再生医療も発展してもらいたくない。もらったら済む、という風潮になるのが怖い。
・ 天理教:死んでも輪廻転生できる。臓器提供は家族が死を受け入れていない。死は暗いイメージではなく、次も生まれ変わって自分の魂は自分のものという感覚があるので、本人の意思は尊重するが、家族の意見で生かされるよりも、そうなったらしょうがないと思う。
・ 体と心は一つ。どこからどこまでが成立していれば人間なのか?動かなければ死?
・ 臓器移植はNGで、献血はいいのか?血液も考え方によっては臓器。
・ 再生医療によって臓器の取替えは可能になる。人の命はかけがえがない→かけがえがある→cheapになる?→かけがえがなくなくなることをどう考えるか?
・ 日本人の死生観:仏教では自己犠牲の一方で、欲望を抑えるべき。見極めとあきらめ。一概に言えない感覚がある。
・ 脳死者からの臓器摘出手術時、麻酔をかける。・・・どういうことか?
・ どこからが死かはよくわからない。髪の毛の細胞も大脳の細胞も、細胞レベルでは同じもの。髪が死んでも人間の死ではないが、脳が死んだら死とする。生物学的な死、感覚としての死。養老猛司氏によると、死には1人称、2人称、3人称ある。自分との関係性(距離感)。
・ 極めて親しい人の死に直面したら、どうにかしたいと思う。人間の欲望にはきりがない。技術的にできることとやっていいことは違う。原爆の問題も同じ。いまや北朝鮮でも作れるレベルだが、自分が生き残るための道具として存在する。
・ 臓器は取り替えられる=そのうち普通になる? どこまでがもとの自分か?
・ 臓器移植で性格が変わる?まだ解明されていないのではないか。骨髄移植すると血液型が変わる。→頭だけでものを考えるのではなく、体全部が影響している可能性もあるのではないか。
・ 体と心の関係がわからないのに一部を取り替える議論だけ進めていいのか。
・ なぜ人の死を法律で定義する必要があるのか?法律はデジタル。「脳死=死」となると、たとえば保険会社は考える。保険契約書に「死んだ場合」とあるが、それがどんな状態かは定義されていない。今後、様々な解釈が生まれてしまう。
・ 医者は「脳死は死」と法律に書くことで自らの判断根拠となる。
・ 死ぬ側にも見極めとあきらめる感覚があった方がいい。機械をつないで生かすことはそれこそ「人道的」ではない。
・ 医者の判断にゆだねることを避けるために法律で定めた方がいい?→定義がある方が混乱が起こる。言葉とリアリティ(そのときどきの状況)にはギャップがあり、食い違う。
・ 法律で生死を定めること=中絶、脳死、死刑。死刑はそれを行使するかどうかは別にして、抑止力にもなる。刑罰としては何千年も続いている。それなりに意味がある。
・ 先天的に障害をもつ=自然淘汰される=生物のサイクル。運不運は生き物にとってつきもの。助けるのがあたりまえ?
・ 昔なら死んだのに、今は生かすことができる。社会のあり方が変わっている。
・ 乳児死亡率は先進国中ワースト2位。小児医療の問題。
・ 医療が確立する前から死は存在するのに、今は医療でできるできないから死を判断しようとしている。
・ 昔と比べて死が身近でなくなった。目の前で死ぬ状況がなくなった。だから今、急に死が訪れると対処できなくなったのでは?
・ 医療を過信している? 死を宣告されるとなぜ自分がそんな目に会わなければならないのか、逆切れする(生かされることが当然という感覚)。
・ 「小老病死がアウトソーシングされている」
・ 心臓マッサージ20分=その指標を誰が決めるのか?1時間後に心拍再開する場合もある。線引きはある程度の指標として欲しい。
・ 法律を根拠にすると必ずトラブルになる。訴訟が増える。最後は医者との信頼関係。納得するかどうか。法律で決めると楽になるが、雑になる。文句も出る。人間は欲、エゴのかたまり。医者も患者もエゴがある。状況によって判断が求められる。デジタルの世界には持ち込めない。
・ 人間は死亡率100%であって、死から逃れられない。死の覚悟がなくなっている。
・ 技術の進歩と社会の進歩はイコールでない。
・ 死があるから、生きることがリスペクトされる。
・ 病院では「よくがんばったね、おつかれさまでした」という死が多い。死ねてよかった、という周囲のいたわりの感情も沸く。
・ 死に対する一種のわりきり、あきらめとエゴのバランス。
・ 医療技術の発達。日常から死が遠ざかった。だれかが死んでもだれかが生まれて、というかたまりの感覚がなくなった。家族の縦割りになっているので、死に執着する。


―― 続きは次回6/27 へ